革命
1917 年のわずか 9 か月の間に、ロシアで 2 つの革命が起こり、国の運命が永遠に変わった。2 月にロシアの帝政が崩壊し、やがてボリシェヴィキが国家権力を掌握した。革命の指導者となったのは(ほぼ偶然の成り行きでそうなったのだが)、解放農奴の息子、ウラジーミル・レーニンだった。
スターリンが権力の座に
レーニンは、対等な条件で独立した共和国の連合として、またすべての社会主義国の将来の統一の基礎として、ソ連を創設したいと考えていた 。彼は、中央集権国家の構想に激しく反対し、それを民主主義に反するとした。しかし、最終的には、ソ連を中央集権的で権威主義的な国家に変えるスターリンの目論見が実現する。
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工業化
1928 年、ソ連は「五カ年計画」を導入して工業化を始めた。「五カ年計画」は、経済を後押しするはずであり、しかも、1年早く4年間で遂行された。それは、強力な宣伝になったが、ソ連国民には耐え難い負担だった。
国営の集団農場
工業化が始まるとともに、多数の人々が都市に移り、耕地は放棄され、十分な人手がなくなった。これらすべてが国に深刻な飢饉を引き起こした。国営の集団農場が戦略的対象となるべきことが明らかになった。国は農業を促進し、ポスターや映画を通じてそれを美化した。個人農場を廃止することで、ソ連は集団農場を自身の食料源に変えた。国は、集団農場を厳重に管理し、生産物はぎりぎりまで収奪されて国に送られた。
スポーツ帝国
「国を興隆させる」ためには、ソ連国民は、健康で運動能力を備えるべきだった。そのため、スポーツは幼時から奨励されていた。ソ連のスポーツ礼賛は、1930 年代に頂点に達し、モスクワの「赤の広場」で壮大華麗なスポーツ・パレードも催されるようになる。
無料の教育
ボリシェヴィキが権力を握ったとき、ロシアでは、識字率が極めて低かった。全国民への無料教育は、最も重要な社会プログラムの 1 つになった。
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ダーチャはソ連の「地上の天国」
自分のダーチャ(別荘と家庭菜園)を持つことがソ連国民の夢だった。もっとも、大抵の場合、これらのサマーハウスには、上下水道がなく、インフラは最小限であり、したがって、年間のほとんどは寒くて空き家だった。しかし、ソ連国民が本当に幸せを感じたのはまさにここだった。
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ソ連における児童の生活
「同志スターリン、私たちの幸せな子供時代をありがとう!」。このフレーズは、1936 年に「赤の広場」で行われたスポーツ・パレードで初めて発せられ、すぐに最も印象的なプロパガンダ・スローガンの 1 つになった。
幸せな子供時代ということで言えば、それはさほど現実から乖離していたわけではなかった。ソ連の子供たちは、コンピュータや大量のおもちゃは持っていなかったが、屋外で多くの時間を過ごし、グループで遊び、参加できるサークルやクラブがたくさんあった。
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宇宙開発熱
1950 年代以来、「宇宙開発競争」は何千万人ものソ連国民の心をとらえてきた。ソ連が人類初の有人宇宙飛行を成し遂げたとき、アレクセイ・レオーノフが世界で初めて宇宙遊泳を行ったとき、そしてワレンチナ・テレシコワが女性として世界で初めて宇宙に飛び立ったときは、人々は感極まって泣いた。
「スボートニク」(土曜勤労奉仕)
毎年、春になると、ほぼ全国民がアパート、学校、工場周辺などの環境を改善するために無償で働いた。落ち葉やがれきを取り除き、フェンスにペンキを塗り、故障した場所を修理した。この活動は土曜日(スボータ)に行われたので、「スボートニク」と呼ばれていた。
当初、こうした自発的な社会活動は、極めて熱心に推進された(それは社会主義社会の利益にかなったからだ)。しかし、後にスボートニクは義務となり、高尚なボランティア活動としての雰囲気を失った。
炭酸水の自動販売機
炭酸水の自販機は、ソ連全国に設置されており、人々は長い行列をつくっていた。面白いのは、誰もが、自販機に付属していた同じコップで飲んでいたこと。ただし、備え付けの洗浄装置で、水ですすぐことができた。
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教会の弾圧
ソ連政府は、多くの事柄に反対、弾圧しようとしたが、宗教にはとくに過酷だった。神への信仰を社会主義への信仰に置き換えて、前者を地上から抹殺したいと考えた。1918年、正教会は、「国家から分離」され、結婚、出生、死亡は、それまでのように教会で登録されなくなった。そして、教会は倉庫、国家機関、刑務所などに変わり、単に破壊されたものもあった。とはいえ、ソ連では、宗教は公式には禁止されていなかった。
ボリシェヴィキ政権によるロシア正教会の弾圧について詳しくはこちら>>
食堂
公共の食堂は、ソ連時代の際立った特徴だった。それらは、ソ連の女性を料理から解放し、社会主義建設に全精力を集中させるために設けられた。
ソ連国民の食事については詳しくはこちらで>>
メーデーの行進
毎年恒例の労働者の祭日「メーデー」のデモは、帝政時代からロシアで行われていたが、ボリシェヴィキが政権を握ると、労働者が「主要な」階級になり、5 月 1 日は国民の祝日になった。デモンストレーションに参加することは義務だった。それを避けようとする者は、信頼のおけぬ国民として白眼視された。
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最初の戦勝パレード
第二次世界大戦終結直後の 1945 年、「赤の広場」で最初の戦勝パレードが催された。ソ連は、約 2,700 万人の国民を失った(そして、この数字は今も絶えず変化している)。その後のソ連の復興は、長く困難な道のりだった。だが、専門家らによると、痛手は決して完全に癒えることはなかった。
スターリンの葬式
1953 年、ソ連国民はヨシフ・スターリンの死を悼んだ。何万人もが独裁者の亡骸に別れを告げたいと切望したが、当局は告別を適切に組織することができなかった。これは多数の人々の圧死を引き起こした。今日にいたるまで、その日の死亡者の推定数は、数十人から数千人まで大きな幅がある。
工作機械で働く女性
ソ連は男女平等の国だった。ボリシェヴィキ政権は当初から、立法レベルで男女の権利を平等にした。女性は、職業、居住地を選択し、教育を受け、結婚し、また離婚し、男性と同等の給料を得る権利を手にした。女性に対する扱いは「それに応じたものとなった」。すなわち、女性は重労働を行い、機械の前に立ち、畑を耕し、鉱山で働いた。
全般的な品不足
車や家具を買うのに何年もかかることがあった。食料や衣類も不足していた。これは、ソ連国民にとってはありふれた状況だった。そして、無限の行列に並んで「カウンターの下からそれを取り出させる」能力は、ほとんど「国技」に類するものとなった。
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国中に同じ規格のアパート
膨大な数の人々が都市に移住した後、住宅問題がこの若い国の悩みの種になった。これをどうにか解決できたのは、ようやくニキータ・フルシチョフの時代だ。彼は、同じタイプの5階建ての建物(「フルシチョフカ」と呼ばれていた)を国中に建設するように指示した。ソ連国民のほとんどがこうした同一規格のアパートに住んでいた。仮に自分が住んでいなかったにしても、親戚や友人には「フルシチョフカ」住まいの者が必ずいた。典型的なソ連式アパートについてはこちらをどうぞ。
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ピオネール・キャンプ
子供たちは6~7歳で学校に通い始め、9歳でピオネール(ソ連共産党の少年団)に参加した。ピオネールに入ることは大きな栄誉だった(ほとんどの子供がピオネールに加わったが、稀な例外もあった)。そして夏休みの間、子供たちはピオネール・キャンプに行った。(共産主義体制の観点から見て)最良のピオネールたちは、キャンプ「アルテク」に行くことができた。これは、クリミア半島にある最も有名で権威あるピオネール・キャンプだった。
強制収容所(グラーグ)の囚人
北極圏からカザフスタン、無人のタイガ、そして極東に至るまで、スターリン時代の強制収容所(グラーグ)のシステムは、ソ連全体を覆い、3万か所以上の収容所がそれに含まれていた。何百万もの人々がそこに収監され、強制労働に従事した。
憧れの保養施設へのチケット
それはすべての労働者の夢だった。法定休暇は 28 日あったが、必ずしも海辺の保養施設で過ごせたわけではない。ソ連のリゾートとサナトリウムには、約 85 万のベッドがあった。だから、1 億 2千万人以上の人口を抱えるこの国では、ここに辿り着ける者は 1% 未満だった。
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「骨の上」のレコード
米ソの冷戦中、ブギウギ、ロックンロール、ジャズなどの欧米の音楽は、ソ連では「準合法的」な位置づけだった。この種のレコードは、店では買えなかった。しかし、世界の文化的潮流に乗り遅れたくなかったソ連国民は、エルヴィス・プレスリーを聴く独自の方法を思いついた。古いレントゲン写真に録音して流布したのだ。
最初のジーンズ
「鉄のカーテン」は、ソ連国民を「腐敗した」資本主義世界から遮断した。にもかかわらず、「カーテンの隙間」から、最初のアメリカのジーンズ、タバコ、ドアーズのレコードなどを手に入れた者がいた。もちろん、こんな商品は、ソ連の店では購入できなかったので、闇市場で「ファルツォフシク」という闇屋から買わねばならなかった。
ソ連が消えた日
「古いシステムは、新しいシステムが機能する前に崩壊した。そして、社会の危機はさらにエスカレートした」。ソ連の最初で最後の大統領であるミハイル・ゴルバチョフは、1991 年 12 月 25 日に、国民への演説で、ソ連解体についてこう説明した。専門家によると、ソ連崩壊には他にも多くの理由がある。それについてはこちらでどうぞ。