なぜスターリンの死が多数の市民を死に追いやったか:告別式に際しての大量圧死事件

ヨシフ・スターリンの遺体。1953年7月3日。

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 1953年3月5日、ソ連市民は、ヨシフ・スターリンの死を悼んだ。この過酷な独裁者は、今日にいたるまで、ロシア近現代史の中で最も毀誉褒貶に富んだ人物であり続けている。何万もの人々がこの指導者の遺体に別れを告げることを望んだが、当局は国葬の適切な組織に失敗した。その結果は悲惨なものとなった。

 スターリンは1953年3月5日に、別荘で脳卒中の発作で斃れた(暗殺説もある)。翌日、ソ連国民はラジオで公式発表を聞いた。あるジャーナリストによると、その口調は、悲しみに満ちたものだった。「レーニンの事業の協力者であり、その天才的な継承者、共産党とソ連国民の賢明なる指導者にして教師――その人物の心臓は鼓動を止めた」

「ディナモ」工場の労働者たちがラジオでスターリンの死の公式発表を聞いている。

 ほとんどのソ連国民にとっては、それは神が死んだと聞いたようなものだった。国民のなかには、全能のスターリンを愛していた者も憎んでいた者もいたが、にかかわらず、彼らは過去30年間にわたり、スターリンの意志の下で生きてきたのだ。

 その間に、急速な工業化によって、かつては農村が大半を占めていたこの国は、経済大国に変わった。しかし、大量の犠牲をともなった粛清や飢餓、ナチス・ドイツとの恐るべき戦争、そして栄光の勝利も、この時期に起きている。これらすべてがスターリンの「時計」のもとで起きたのだが、今やその彼は存在しない…。

国民の悲劇

 公式のプロパガンダのもとで育ち、スターリンの粛清の規模について何も知らなかった人たちにとっては、彼の死はカタストロフであり、自分の父親が死んだより悪かった。ソ連の全国各地で、人々は泣き叫んだ。今日でも我々は、これに近いものを見ることができる。たとえば、北朝鮮の最高指導者、金正日が2011年に亡くなったとき、何百万人もの人々がその死を悼んで、ヒステリックに泣き叫んでいた。

 アナスタシア・バラノヴィチ=ポリヴァノワは、1953には学生だったが、こう振り返っている

 「私たちの大学で私は、党の職員が泣き崩れて立っていることすらできないのを見た…。また、私たちのマルクス主義の教師は、とても良い人だったけれども、なんと、こんなことを口にした。『もし誰かが私にとっていちばん大切なものは?と聞いたら…もちろん、私の娘です、と答えるでしょう。でも、もし私が、娘を差し出せば彼を復活させることができるというのなら、私はそうするでしょう」

 スターリンに対する個人崇拝はあまりに強かったので、粛清の犠牲者の縁者たちさえ、彼の死を嘆いた。

 「私の母が話してくれたところでは、スターリンの死について知ったときはみんな泣いた。子供だった母も泣いた。人生が意味を失った虚しさと無力感から…。私の祖母も泣いたけど、これは私には驚きだった。祖父は粛清されたのだから」。グルジア(ジョージア)系のテレビ司会者、ティナ・カンデラキはこう回想する

喜んだ囚人たち

1953年3月。ヨシフ・スターリン (1879 - 1953)の棺を運んでいるラヴレンチー・ベリヤ(1938 - 1953)、ゲオルギー・マレンコフ第2代閣僚会議議長(1902 - 1988)、ワシーリー・スターリン中将、ヴャチェスラフ・モロトフ (1890 - 1986)、ニコライ・ブルガーニン元帥(1995 - 1975)、ラーザリ・カガノーヴィチ(1893 - 1991) 、ニコライ・シュヴェルニク。

 もちろん、すべての人がスターリンのカリスマ性とプロパガンダで催眠術をかけられたというわけではない。とくに刑務所や強制収容所で呻吟している人々、でっち上げの罪で流刑に遭っている人々は。彼らはスターリンの死に救いを見た。

 「我々は、シベリアのノリリスク(モスクワの北東2,800キロ)の近くで、基礎ピットを掘っていた」。アナトリー・バカニチェフは言う。彼は、ドイツ軍の捕虜になったために、収容所に投獄された(*スターリンは、ドイツ軍の捕虜になった者について、内通の可能性を疑っていた――編集部注)。

 「私が永久凍土をつるはしでたたいていると、仲間の声が上から聞こえた。『アナトリー、ここから出ろ、あのろくでなしがくたばったぜ!』。収容所の受刑者がみんな喜んだのに気付いた。ある者は、そのニュースの後で「万歳!」を叫ぶように言われたほどだ」

大量の圧死

1953年3月9日。スターリンの葬式が行なわれていた時のモスクワの通り。

 シベリアの囚人たちは静かに喜んだが、一方、モスクワでは、党幹部が告別式を組織していた。1950年代初めのソ連ではまだテレビが珍しかったから、これは簡単なことではなかった。何千何万もの人々にとっては、スターリンとの告別の機会は、直接、葬儀に出て棺の遺体を目にすることしかなかった。

 そこで死去の翌日6日に、遺体は、モスクワ都心にある同盟会館の円柱の間に安置されたが、そこに大群衆が指導者を一目見ようとやって来ることになる。

 参列者の通るべきルートは、モスクワの中心部に警察と軍によって明確に設定され、守られていた(彼らが望んだように)。そして、1953年3月6日、人々が大群衆をなして、狭いロジデストヴェンスキー並木道からトルブナヤ広場に押し寄せてくると…広場は部分的に、トラックの車列と騎乗した軍人により封鎖されていた。

 広場には、人々が通り過ぎるのに十分なスペースがなかった。ところが、他の人々が次々に押し寄せてくるので、後戻りすることもできない。

 「群衆はいよいよぎゅうぎゅう互いに押し付け合い、身動きもできなかった。ただ、人込みといっしょに押されていくしかなかった。人の流れから逃れるすべはなかった」

 エレーナ・ザクスはこう語る。彼女は、この人込みに巻き込まれた一人だ。しかし、彼女は幸運だった。彼女が当局に守られたフェンスのそばを通り過ぎたとき、兵士の一人が彼女をひっつかみ、群衆の外に連れ出して、おそらくは彼女の命を救ったからだ。

棺の中のスターリン。

 だが他の多数の者はこれほど幸運ではなかった。

 「群衆全体がうめき声を上げていた…街灯やトラックに圧しつけられている人もいた…。そこに居合わせた私の祖父は、ふと自分の足の下に、奇妙なぐちゃぐちゃする音を聞いた。見下ろすと、人間の腸だった」。こう語るのはテレビ・ジャーナリストのアントン・フレーコフだ。

 翌朝、多くの人が病院や遺体安置所で親戚や友人を探さねばならなかった。

 66年後の今日も、その日に亡くなった人の数はいまだに不明だ。推定死亡者数は、数十から数千までと大きく幅があり、公式統計は依然として機密扱いである。それでも一つ明らかなことは、スターリンの力は、その死後もなお国中を覆っており、大量の死者を文字通り墓場に彼方に道連れにしたことだ。

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