雪かき、ゴミ掃除、落ち葉掃き、植樹や花壇植え。現在、こうした活動は市政府やエコ活動家の仕事になっているが、ソ連時代は春になると必ず、ほぼ全員、外に出て、家の周り、学校や大学の周りをきれいにするため、こうした勤労奉仕をしなければならなかった。この勤労奉仕は「スボートニク」と呼ばれた。というのも、こうした作業は公式的には休日であった土曜日(スボータ)に行われたからである。
最初、これはボランティアであった。人々は皆の福祉のために熱心に勤労した。作業に参加したくない人たちは、怠け者だと後ろ指をさされた。しかし後に、スボートニクは強制的なものとなり、学校の生徒たちは放課後に学校の周りを清掃しなければならなかった。
最初のスボートニクが始まったのは新たなソ連国家が樹立されたばかりのときで、積極的に宣伝された。1920年4月1日から5月1日にかけてはいわゆる「赤い労働月間」が実施された。
ちなみに、スボートニクは現在も行われているが、かつてのように大規模なものではなく、専ら自発的なものである。
「はい、笑って!」、スボートニクに参加するモスクワの高等教育機関の学生と教師たち、1975年
セルゲイ・スハレフ/ パヴェル・スハレフ所蔵ポスター「皆、スボートニクに参加しよう!」
ポスター「ピオネールと学生の皆さん!街や村での新たな庭づくりを手伝いましょう!わたしについてきてください!」、1955年
ソフィヤ・ニゾワ=シャブルィキナ、出版社IZOGIZニコライ・スィソエフ、クレムリンのスボートニクで働くウラジーミル・レーニン、複製
イグナトヴィチ/Sputnik鉄道でのスボートニク、ペトログラード、1919年
ヴィクトル・ブッラ/ モスクワ・マルチメディア美術館/ モスクワ写真会館泥炭地でのスボートニク、1920年
南ウラル国立歴史博物館スボートニクでの集合写真、1932年
ミハイル・スモドル/ 「コストロマの過去」ウラル地方にて、金の採掘を行うスボートニク、1935年
南ウラル国立歴史博物館スボートニクに参加する兵士たち、1950年代
Russiainphoto.ru住宅地の緑化を行うスボートニク、1958年
南ウラル国立歴史博物館スボートニクで、地区の清掃をする子どもたち、1959年
ワレンチン・フフラエフ/ ワレンチン・フフラエフ所蔵スボートニクで勤労する極東のシホテ・アリンスキー国立生物圏保護区の職員たち、1960年代
シホテ・アリンスキー国立生物圏保護区チタ市のスボートニク、1960年代
ウラジーミル・イヴァネツ/ ナタリヤ・ベレゴワ所蔵モスクワのスボートニクで建設作業をする人々、1960年代
フセヴォロド・タラセヴィチ/ モスクワ・マルチメディア美術館/ モスクワ写真会館春のモスクワ、通りでのスボートニク、1963年
ガリーナ・サニコ/ モスクワ・マルチメディア美術館/ モスクワ写真会館モスクワのスボートニク、広場に植樹する生徒と教師、1964年
レフ・ウスチノフ/Sputnik「スターリングラードの戦いの英雄」の記念碑を背景に行われるスボートニク、1969年
Yu. エフシュコフ全ソ連共産党スボートニク、1970年
イズライル・オゼルスキー/Sputnikクレムリンをバックに全ソ連共産党スボートニクに参加するホテル「モスクワ」の職員たち、1970年
セルゲイ・スボーチンヴォログダ州でスボートニクに参加する凝集プラントの職員たち、1971年
Yu. ヴォロノフ/ チェレポヴェツ博物館連合モスクワの軍事病院の敷地内でのスボートニク、1971年
ニコライ・エキモフ所蔵春に植樹する生徒たち、1972年
フセヴォロド・タラセヴィチ/ モスクワ・マルチメディア美術館/ モスクワ写真会館モスクワの通りで、第50回共産党スボートニクに参加する学生たち、1969年
ボリス・ウシマイキン「大きな熊手はどこ?」 1975年
セルゲイ・スハレフ/ パヴェル・スハレフ所蔵レーニン共産党スボートニクに参加するタジキスタン共和国の人々、1978年
フセヴォロド・タラセヴィチスボートニクに参加する工場の技師たち、1981年
シャルィポフ=アファナシエフ家所蔵寮のそばで植樹するモスクワ大学の学生たち、1984年
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