1. 1960年代のソ連時代のモスクワ。スタイリッシュに決めた若いダンディーな男が、「赤の広場」に面したグム(GUM)百貨店の周りを、または豪華なホテルの近くをぶらついている。彼はソ連に観光で来た外国人を物色しているのだ。「獲物」が見つかると、「モスクワへようこそ!どうしました?この辺をご案内しましょうか?ソ連の本物のホームパーティーに行ってみたくありませんか?」という感じで近づく。
2. 典型的な闇屋「ファルツォフシク」は、外国人観光客にこんなふうに取り入り始める。フレンドリーで、ニコニコ顔で、英語を話し、公式のモスクワ観光では見られないものを見せてやる。彼の目標は、観光客たちを彼のようにすること…。すなわち、彼らが海外から持ってきた外国製商品なら何でもかんでも――チューインガムからジーンズ、外貨、ブランドのビニール袋にいたるまで、手に入れることだ。
3. ソ連で作られた衣服のほとんどは制服なみの規格品だった。スタイリッシュなアイテムはほとんどなかった。ソ連市民がシックになる方法は2つあった。1つは海外で買うか(しかし、そのためには、出国ビザを取得する必要があったから、まず無理だ)、闇屋からブランド物の洒落た衣服を買うことだ。
「店頭では選択の余地はなかった」と、1980年代初めにティーンエイジャーだったエカテリーナ・ダニーロワさんは言う。「人々は、店の前の長蛇の列が見えると、立ち止まって列に加わったものでした――結局、何を買うことになるのかぜんぜん分らなかったのに。時には帽子だったり、時には化粧品だったりしました…」
これとは対照的に、やり手の闇屋たちは、外国人といろんな品を取引し、彼らがソ連に持ってきたブランド・アイテムを手に入れ、その後で、ソ連市民に有利な条件で横流しした。そうやって生計を立てていたわけだ。
4. こうした闇取引「ファルツォフカ」は、大胆で独創的な「デアデビル」たちが行う、危険なビジネスだった。彼らの大半は、いわゆる進歩的で教育のある若者で、外国の生活についてある程度の認識をもっていた。市場の「見えざる手」によって支配される従来の事業とは異なり、ファルツォフカ(略語はファルツァ)は独自の仁義に基づいたライフスタイルだった。
闇屋「ファルツォフシク」は、仲間の闇屋や「お得意さん」に偽物をつかませたり、法外な値段をふっかけたりすることは決してなかった。しかし気まぐれで信頼できない新顔の買い手に対しては、価格を引き上げたり、他の方法でだましたりすることはあった。
「私は友人たちと、鉄道のキエフスカヤ駅の近くで、市場の売り手に子供用ジーンズを売ったことがある。その際に、ラバーコーティング(耐久性を高める)だと言って、ごまかした」。元闇屋のワシリー・ウートキンさんは当時を思い出す。
5. こうした現象は、1950年代後半にさかのぼる。当時、ソ連の主要都市で、アメリカのライフスタイルを賞賛した「スティリャーガ」と呼ばれる人たちが現れた。これはソ連版ヒップスターともいうべきサブカルチャーだった。
これらの人々は、カラフルな外国製の布と、ラベルが貼られた外国製グッズを持っていた。彼らは、「ファルツァ」の最初の売り手および買い手で、この現象は後にソ連社会の他の領域にも広がっていった。
6. こうしたビジネスは非常に有利なこともあったが…極めて危険なこともあった。有名なケースだが、ソ連市民ヤン・ロコトフは、1961年に銃殺刑に処せられている。彼は、一見たいして罪のない闇取引に見えるが、大規模な外貨取引を含む精巧なスキームをつくり上げた。
ソ連警察が彼のアパートを捜索したところ、外貨と金地金で150万ドル(現在の1250万ドル相当)というショッキングな発見があった。ふつうの闇屋はそれほど厳しく追跡され罰せられたわけではないが、それでも警察と国から大きな圧力を受けていた。国は、民間事業のイニシアチブはすべて禁止していた。
7. ふつうの闇屋の商売の規模は、ロコトフほど壮大ではなかったが、それでもかなりの利益を上げていた。ブランド物のジーンズは、150ソビエトルーブルが相場で、これは、1980年代の平均的な労働者の月収とほぼ同じだった。こうした価格のスキームは、逆もまた然り。ソ連商品も外国人に非常な高値で売られていた。
「1982年、私は小学校で勉強していた。先生は、『母国を売っている人がいます。彼らは外国人にソビエトの記章を売っています』と言って、彼らが要求している正確な価格を教えてくれた。放課後、私は最寄りの店に駆けつけ、ポケットマネーをはたいて、ソ連のピン付きの記章『ソ連共産党に栄光あれ』を買い漁った。それから私は、外国人観光客にそれらを売って、50ルーブル稼いだ。国の平均月給が120ルーブルだったのに」。エフゲニー・セミョーノフさんはこう語る。彼はその後、外国製のジーンズ、雑誌、チューインガムその他の品を販売し始めた。
8. ジーンズ、ブーツ、その他のおしゃれなアイテムのほかに、闇屋たちは、“本物の”ビニール製商品、外国製のアルコール飲料、初期のオーディオシステム、タバコ(とくにマルボロ)、さらにはカラフルなブランド物のビニール製バッグまで商った。政府がそれらのグッズへのアクセスを制限していたソ連では、人々は外国のものなら何でもかんでも貪欲にほしがった。
9. 1980年代後半~1990年代初めに、ソ連は孤立状態から抜け出した。ソ連の人々はもっと頻繁に旅行するようになり、外国の商品や衣類はいわゆるコマースショップを通じてゆっくりソ連市場に浸透していった。市場はもはや闇屋「ファルツァ」を必要としなくなった。
「1990年代初めに私は、当時とても珍しかったベトナム製のピンポンのラケットを一組買うことができた。しかし驚いたことに、複数の店にもうたくさん置いてあることが分かった」。元闇屋ゲンナジー・ジトニコフさんはこう振り返る。
現代化された国ではもはや闇屋は、過去の草創期のビジネスとなった。「ファルツァ」はもはや、それで生きてきた人々の甘美な思い出でしかない。あるいは、ロシアの映画製作者の題材であるにすぎない。
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