ウラジーミル・レーニン(本名はウラジーミル・ウリヤノフ、1870~1924年)は、ボリシェヴィキ党(ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派)の指導者だ。この党は1917 年に、ロシアの 10 月革命の原動力となった。
この革命は、ロシアおよび世界の歴史への影響という点で、1789 年のフランス革命以外、比肩するものがない。ロシアにおける蜂起は、最終的に、新しい、さらに大きな国家「ソビエト連邦」の創設につながった。
そして、レーニンは、ソ連の最初の指導者であり、そしてこの国のリーダーとしては、今日にいたるまで最もリスペクトされている。ロシアだけでなく外国(たとえばインドなど)にも、何百ものレーニンの記念碑、銅像があり、ロシアの大抵の都市には、レーニンの名を冠した通りがある。
子供時代のレーニン
Public domainレーニンはシンビルスク(現ウリヤノフスク、レーニンの家族であるウリヤノフ家にちなんで名付けられた)の貴族の家に生まれた。彼の父イリヤは地元の教育を管轄する官吏(視学官)であり、家庭は裕福だった。ウラジーミルには2人の兄弟と2人の姉妹がいた。
ウリヤノフ家の写真(レーニンは右にて)
Public domain歴史家たちの一致した見解によると、ウラジーミルが革命家になったきっかけは、1887 年に兄アレクサンドルが処刑されたことだ。彼は、皇帝アレクサンドル 3 世の暗殺計画に加わった。
しかし、それ以前から革命思想がウリヤノフ家に浸透していた可能性がある。レーニンの姉アンナ・ウリヤノワも革命家であり、1886年に、デモに参加したことで初めて逮捕されている。
いずれにせよ、レーニンは、1887年にカザン大学に入学すると間もなく、革命活動のために逮捕され、退学処分となり、共産主義文献を熱心に読み始める。
ウラジーミル・レーニン、1891年
Public domainこのように、レーニンは大学に入学するとすぐに、学生運動の集会に参加したなどで退学処分になったわけだが、これが彼と官憲とのトラブルの始まりとなった。彼はサンクトペテルブルク大学法学部の試験を受け、弁護士補となったが、革命活動は続けた。1895 年、レーニンはマルクス主義者のグループである「労働者階級解放闘争同盟」を創設し、その後逮捕されて、3 年間のシベリア流刑となった。
ウラジーミル・ウリヤノフには 100 を超えるペンネームがあり、記事や宣言に署名するために用いたが、その中に「ニコライ・レーニン」もあり、1901 年に初めて使っている。
一説によれば、「レーニン」はシベリアのレナ川に基づく。また、ニコライ・レーニンという人物が実際にいて、ウラジーミル・ウリヤノフが正体を晦ますためにその名を使ったという説もある。
ウラジーミル・ウリヤノフが権力を握った後、党と国家の公式文書には「V. I. ウリヤノフ(レーニン)」と署名するようになる。
演説しているウラジーミル・レーニン
Public domainレーニンはボリシェヴィキ党(ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派)の指導者だ。これは、マルクス主義を掲げる「ロシア社会民主労働党」の急進派。1912 年にレーニンとその同志は、「ロシア社会民主労働党」の、漸進的革命を主張した穏健派(メンシェヴィキ)とたもとを分かち、1917 年春にはすでに別の政党になっていた。
この時点では、ロシア帝国はもはや存在していなかった(皇帝ニコライ 2 世は、1917年の二月革命で退位し、ロマノフ朝は崩壊していた。これはレーニンとその勢力の参加なしで起きていた)。
亡命先のスイスから帰国した後、レーニンは、いわゆる『四月テーゼ』のなかで、ロシアは「革命の第一段階から第二段階に移行して、労働者と貧農の手に権力を集中させなければならない」と述べた。
レーニンの指導のもと、ボリシェヴィキは、1917 年の十月革命を起こし、権力を握った。
赤の広場で軍隊を観察しているレーニンと側近たち
Public domainロシア帝国に代わってロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(略称は「RSFSR」で、当初の国名はソビエト社会主義ロシア共和国)が誕生すると、レーニンは、その政府の首班、すなわち人民委員会議(ソヴナルコムと言い、内閣に相当する)の議長となった。
正式には、レーニンはこの国家の唯一の指導者ではなかったが、ソヴナルコムを率い、そこで彼は、実質的に自分の部下である人民委員(大臣に相当)に命令を出した。1922 年にソ連が創設されると、それに応じてレーニンはソ連政府の首班となる。
こういう立場にあってレーニンは、いわゆる赤色テロを始めた。これは、ボリシェヴィキ政権に対する政治上の異論や脅威を排除することを目的とした政策だ。「階級の敵」――ブルジョアジー、富裕な商人、貴族など――を物理的に「清算」する形で行われた。レーニンは、彼らを処刑させたり、強制収容所に収監させたりして、特定のグループや人々の権利を奪った。
ニコライ 2 世とその家族が殺害されたのは、まさにこの赤色テロの時期だった。多くの歴史家の意見では、これはレーニンの直接の命令で――文書に記録されてはいないものの――実行された。
レーニンは名実ともに、ボリシェヴィキ党(後のソ連共産党)の指導者であり、最終的には最高評議会である「政治局」を通じてソ連全体を統治するようになった。
レーニンに会った人の多くは、彼が強烈な個性の持ち主であるという点で、意見が一致している。幼少年期に、彼は驚くべき学習能力を発揮し、すべての科目で「全優」だった。しかし、彼は攻撃的で威圧的な気性も示していた。
レーニンは中背(164センチメートル)のがっちりした体格で、身体能力も優れていた。釣りと狩猟が大好きで、スイスに亡命中はよく自転車に乗っていた。イギリスの外交官ブルース・ロックハートは次のように回想している。
「高い額とややモンゴロイド風の目以外には、彼の外見には目立った特徴は何もなかった。スーツはいつもだぶだぶで、ネクタイも大抵は無造作に結ばれていた。彼は、頭を後ろに反らして、親指をベストのアームホール(袖ぐり)に、具合よさそうに押し込んで立つのが好きだった。厳寒の時を除いて、彼はいつも頭にハンチング帽を被っていた」
成人した後もレーニンは驚異的な記憶力を発揮した。数頁のテキストを数分で覚えることができた。また彼は、生涯を通じてチェスの愛好家でもあった。
ボリシェヴィキ党員たちと非常に親しかった英国の作家・ジャーナリスト、アーサー・ランサムはこう述べている。「(レーニンは)人生をとても愛しており、それが私を感動させた。私は、これほど陽気な気質の人間を一人も思いつかなかった。このずんぐりした禿頭で皺だらけの男は、椅子の上で体を左右に揺らしながら、いろんなジョークを飛ばして笑っていた。しかも、彼を遮って何か質問する人がいても、いつでも真剣なアドバイスを与える用意があった」
英国の歴史家ヘレン・ラパポートは、「レーニンはシニカルな風見鶏だった」と書いている。
「彼は状況と政治的利害に応じて党の戦術を変えた。おそらく、これは彼の戦術家としての並外れた才能だったろう。彼は冷酷で残忍で、自分の目的のためには、恥知らずに人々を利用していた」
ウラジーミル・レーニン、1923年
Universal Images Group/Getty Imagesレーニンが国の指導者だった時代に、彼の命を狙った試みが少なくとも 2 回あった。そのうち1回は、敵によって計画されたもので、もう 1回は、単なる犯罪者の待ち伏せだった。
1922 年春、彼の健康状態は急激に悪化。脳のアテローム性動脈硬化症が、彼の体調不良、記憶喪失、言語不明瞭などの原因だと推定された。1924 年に 53 歳でレーニンが亡くなった後、彼の脳は徹底的に調査、研究されたが、正確な死因についての手がかりは得られなかった。
レーニンが亡くなった後、彼の遺体はモスクワの赤の広場にある霊廟に安置され、今日にいたる。
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