帝政時代、子どものしつけや教育は主に家庭内で行われたが、ソ連政府はこの問題を自らの管理下に置いた。社会が分断された雰囲気の中で、これはとくに重要なことであった。一つの家族の中に、革命を支持する勢力とそうでない考えを持つ勢力がいることもあった。そして重要なことは、子どもに正しい世界観を植え付けることであった。国の教育レベルはきわめて低かったため、子どもたちに将来に向けた社会的方向性を保障することが重要であった。というのも、子どもというのは、未来の共産党建設者だったからである。
村の学校、190年代
MAMM/MDF/Russia in Photo1917年の革命まで、子どものしつけというのは完全に家族に任されていた。両親は、子どもを家庭で教育するか、学校で学ばせるかを選んだ。子どもがたくさんいた村では、上の子どもたちが下の子どもたちの面倒を見た。しかも、子どもたちは小さい頃から畑仕事や家畜の世話に忙しく働いた。
裕福でない両親は子どもを仕事のために「貸し出す」ことができた。民俗工芸の助手などであったが、これはほぼ奴隷のような状態であった。このような例は文学作品の中にもたくさん描かれている(マクシム・ゴーリキーの「人々の中で」、アントン・チェーホフの「ワーニカ」など)。
サマラの学校、1900年代
Samara Region Art Museum/Russia in Photoロシア帝国では、1880年代からその必要性が言われるようになったものの、義務教育というものはなかった。学校はたくさんあり、新たな学校も次々と作られたが、教育プログラム(また維持費のほとんど)に対する責任はそれぞれの地域に一任されていた。県や郡がこの問題に個別に取り組み、共通した管理システムはなかった。統一された学校のプログラムもなく、個々の教師が自身の経験や教育に基づいて、何をどう教えるかを決めた。
ソ連政権はロシア史において初めて、共通した子どものしつけと教育の問題に注意を払った。どのような条件の中で子どもが育つべきかという問題は、もはや家族の問題ではなく、国家の問題になったのである。それは、ソ連社会の新たなメンバーとして、また共産主義の未来の建設者として育てられたからである。子どもたちには正しい価値観を植え付けることが必要であり、また将来、国全体に幸福をもたらすために働くことができるよう、健康で、きちんと教育を受け、労働能力を備えていなければならなかった。
モスクワの学校、1930年
Emmanuil Yevzerikhin/MAMM/MDF/Russia in Photoソ連政府は生まれたその日から子どもの生活を規定した。正確に言えば、生まれるもっと前からである。というのも、産前休暇、出産休暇が世界で初めて導入されたのはソ連だったのである。雇用主は、女性に対し、出産の前後に補助金を支払い、さらに母子の健康を損ねないよう、出勤しないよう指示した。
子どもが生後1ヶ月か2ヶ月になって(様々な時代で、この期間は変わった。1960年代末には1年になった)、女性は職場に戻り、3時間ごとに授乳のための休憩が与えられた。工場などにはその敷地内に保育園があり、授乳中の女性はそこに授乳しに行き、そこでは授乳の前に必ず温かい飲み物や食べ物が与えられた。
それは働く女性にとって信じられないほどありがたい条件であった。というのも、それまでは、出産と同時に仕事をやめなければならず、それはまったくお金を失うことを意味したからである。
ソ連のプロパガンダは、子どもが健康であるためにいかにして乳幼児を育てるべきか、あるいはどのような衛生上の手順を行わなければいけないのかなどの情報を積極的に拡散した。ソ連政府は、このようにして、子どもの死亡撲滅に努め、様々な病の予防をおこなった(子どもにも母親にも)。
授乳と衛星の重要性を教えるソ連のポスター
Public domain3歳になると、保育園から無料の幼稚園に通うようになり、6歳になると学校に入学する。1918年、ロシアでは子どものための義務(そして無償)教育法が採択された。子どもを学校に行かせない親は行政上の処罰を受けた。公共機関が子どもを保護することもあった。
アルハンゲリスクの幼稚園、1956年
Russia in photo帝政時代には、裕福な親しか子どもに良い教育を受けさせ、立派なキャリアを歩ませることしかできなかったが、ソ連政府は普通の労働者や農民の子どもも希望すればよい教育を受け、成功を達成できるようなインフラを整備した(たとえば、レーニン以降、ソ連の統治者は全員「人民出身」であった)。
帝政時代、ストリート・チルドレンの問題には自発的な取り組みが行われた。ときに国家の資金により、また民間の慈善家らの支援により避難施設が作られたが、主に孤児の問題に取り組んだのは教会であった。また村では孤児がいれば、親戚が面倒を見た。
ホームレスの子供たち、1920年代
Murom Art and History Museum/Russia in photo第一次世界大戦と内戦の後、ロシアでは多くの子どもたちが孤児となり、公式な統計だけでもストリート・チルドレンの数はおよそ700万人に上った(しかも孤児院に入ることができたのはわずか3万人ほどであった)。多くの子どもたちが文字通り、「路上で」育ち、盗みや物乞いをし、その後、犯罪に関わるようになった。
ピオネールとホームレスの子供たち、1927年
Boris Ignatovich/MAMM/MDF/Russia in Photo国家はストリート・チルドレンの問題を完全にコントロール下に置いた。特別児童委員会が創設され、また孤児院や学校も数多く作られた。特別作戦グループが駅や鉄道に配置され、ストリート・チルドレンを「捕まえ」、身体をきれいにし、食事を与え、孤児院に収容した。そして1924年には孤児院にいる子どもの数は28万人に達した。
ソ連時代、新たな教師たちが教育システムをほぼゼロから作り上げた。特に有名なのがアントン・マカレンコである。少年犯罪者の矯正施設を基に、彼は問題のある子どもたちの再教育システムを考案し、それを一般教育機関にも導入するよう提案した。マカレンコは著書「教育のポエム」の中で自らの教育の原則について記述し、彼の名はロシアでモンテッソーリのように有名な名前となった。
アントン・マカレンコと彼の生徒たち、1930年
TASS古い形の学校では、教師は子どもに対して権威的であったが、マカレンコの原則では子どもたちを「全体活動」(たとえば教室の清掃などの簡単な作業)に参加させ、それぞれが自分自身、そして互いに責任を持つということに関心を持たせた。子どものエネルギーはそうして皆の幸せのために向けられ、子ども一人一人が自分は重要な存在であり、必要とされていると感じることができた。
このほか、マカレンコは、学校における「民主主義」の原則を明らかにし、すべての子どもたちが自分の考えを述べ、全体の集会を開き、リーダーを選び、新入生や年少の子どもの面倒を見るべきだとの考えを示した。加えて、彼は規律を守ることを求め、規則違反をした者に罰を与えることも忘れなかった。
映画「ShKID共和国」の1シーン
Gennady Poloka/Lenfilm, 1966民主主義、自立性の原則はソ連の教師ヴィクトル・ソロカ=ロシンスキーも唱えていた。ソロカ=ロシンスキーは、教育を受けさせるのが難しい子どもたちのための学区を作った。ドストエフスキーの名を冠したこの特別な学区の卒業生の中には、大人気を博した「シキド共和国」を書いたグリゴリー・ベールィフとL.パンテレーエフがいる。この「シキド共和国」は後に映画化され、小説に劣らぬ大人気を獲得した。(シキドとはこの学区の名前の省略である。)
ソ連の教育システムが完成したのは1920年代の末である。その主な思想を作ったのは、ウラジーミル・レーニンの妻で、教育人民委員会の副委員長であったナデジダ・クルプスカヤだった。
「学校は勉強を教えるだけでなく、共産主義的な教育を行う中心地であるべきであり、その教えは、育ちゆく世代の子どもたちに、一定のタイプの人間を作り出すために働きかけるものであるべきだ」と彼女は考えた。クルプスカヤは、マカレンコやその他の教育者の方法論のいくつかには賛同しなかったが、自律性や生徒同士の助け合いといった原則を利用した。
ナデジダ・クルプスカヤとピオネール
Sputnik1922年、ナデジダ・クルプスカヤはソ連に子どものためのピオネール組織を創設することを発案した。その前身となったのは1908年のニコライ2世時代に作られたボーイスカウトのような少年団であった。形式はボーイスカウトのようではあったが、中身は共産主義的なもので、若きピオネールたちは、「ソ連の祖国への忠誠、プロレタリア的・社会主義的インターナショナリズム、労働と公共財産への意識的態度、精神的文化の獲得、社会主義的生活習慣に相容れないものの否定」といった精神の中で指導された。
ピオネールには10歳以上のすべての子どもたちがこぞって入団した。本質として、ピオネールは子どもたちに、道徳規範を教えこむ場所であった(革命までは教会がこの課題を担っていた)。それは真面目に勉学に励み、正直であり、労働を愛し、高齢者を尊敬するというものであった。また同志の精神、助け合いの精神も積極的に教えられ、勉強のできる子どもたちはあまり勉強のできない子どもたちを助けなければならなかった。ピオネールは高齢者や孤独な人々への援助も行い、古紙を集めたり、国の活動にも積極的に参加した。
レーニンの肖像画とスローガン「常に備えよ!」を描いたバッジ
Legion Mediaピオネールの主な「シンボル」(赤いスカーフ以外で)は、ウラジーミル・レーニンであった。ピオネールたちはレーニンの肖像画を手に行進したり、記念碑に花を捧げたり、レーニン博物館で護衛を行なったりした。
ちなみに、ピオネールに入るまでは、7歳から「オクチャブリャータ」となり、若いウラジーミル・レーニンの肖像画がついたバッジをつけた。オクチャブリャータ」というのは10月(オクチャブリ)に起こった革命にちなみ、「十月の子」と訳せる。
ピオネールのスローガンは「常に備えよ!」で、それはソ連共産党のための戦いへの準備を意味した。
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