世界初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワはどんな人生を歩んできたか

Sputnik
 ソ連の労働者家庭で生まれたワレンチナ・テレシコワは、単独で宇宙へ行き、国民の英雄となった。2人目の女性が宇宙へ行ったのは、テレシコワの19年後のことだった。

 1962年。襟付きの地味なブラウスと濃い色のミディスカートを身に付け、腰に幅広の帯を締め、髪を後ろできつく束ねた、体格の良い女性。明るい色のサンダルを履いている。彼女は宇宙へ行くことを望むソ連の8000人の女性のうちの一人だ。そして選抜をくぐり抜けた5人のうちの一人でもある。彼女の名はワレンチナ・テレシコワだ。トラクター運転手と紡織工場労働者の娘が、最初の女性宇宙飛行士チームの一員となった。

 「我々は人選を誤らなかった」――後に地球を48周してアルタイ湖に着陸したワレンチナに、彼女の指導者らはこう言うことになる。フルシチョフはテレシコワとともに赤の広場のレーニン廟の演壇に立ち、米国を揶揄した。ブルジョワは女性をか弱い存在と考え続けているが、社会主義の下では女性が平等の可能性を持っている、と。しかし彼女の次にソ連の女性が宇宙へ行ったのは19年後のことだった。

 

全国から選抜 

ワレンチナ・テレシコワ(中央)は友人と一緒に、1956年

 ソ連が宇宙に世界初の女性を送ろうと決めた背景としてはいくつかの説がある。ある説では、ソ連宇宙計画の指導者セルゲイ・コロリョフがこれを望んだという。男性宇宙飛行士による飛行を何度か成功した今、彼にとってこれは合理的な次の一歩だった。別の説では、ボストーク2号で宇宙へ行った宇宙飛行士ゲルマン・チトフが後に米国を訪れた際、米国政府が宇宙に女性を送ることを真剣に検討しているという噂を耳にしたことがきっかけになったという。 

 いずれにせよ、この考えはソ連指導者ニキータ・フルシチョフに伝えられ、彼は宇宙開発競争を新段階に進めることに熱意を示した。

 選抜は男性の場合よりも難しかった。男性の場合は空軍パイロットから候補者が選ばれたが、ソ連の女性パイロットは男性よりはるかに少なかった。このためパラシュート降下の経験者からも選抜を行うことになった。基本的な要件は、年齢30歳未満、身長170センチメートル未満、体重70キログラム未満だった。

ヤロスラヴリ飛行クラブ、テレシコワは右から4番目、1961年

 最終選抜に残ったのは30人で、そこから5人が選びだされた。ジャンナ・エルキナ、タチアナ・クズネツォワ、ワレンチナ・ポノマリョワ、イリーナ・ソロヴィヨワ、そしてワレンチナ・テレシコワだ。テレシコワは飛行クラブに所属し、90回のパラシュート降下の経験があった。

 

最低中の最高? 

ワレンチナ・テレシコワ、1968年

 25歳のテレシコワは宇宙への「切符」を手にした。彼女が主要操縦士として選ばれたのだ。しかし決定の裏に隠れた事実として、彼女は最良の候補ではなかった。それどころか、健康診断と理論教育では彼女は最下位だった(例えば、彼女の代役のソロヴィヨワは約700回のパラシュート降下経験があり、テレシコワとは違ってパラシュート・スポーツの達人に認定されていた)。

 とはいえニキータ・フルシチョフにはテレシコワが最良の候補に見えた。テレシコワは「生い立ち」が相応しかったからだ。ベラルーシの村の裕福ではない労働者家庭の娘で、母を手伝うため学校は7年でやめてタイヤ工場に働きに出た。それから母と姉に続いて紡織工場に勤め始めた。父はソ連・フィンランド戦争(1939年-1940年)で戦死していた。彼女自身、コムソモール(共産主義青年同盟)の書記だった。まさに「人民の娘」だった。

 2つ目の決定的な要因について、初期のソ連人宇宙飛行士養成の指導者ニコライ・カマーニンは自身の日記にこう綴っている。「最初の飛行で送り出すのはソロヴィヨワでもポノマリョワでも構わない。私は彼女らがテレシコワに負けず劣らず、むしろ彼女よりも見事に飛行を成し遂げるだろうと確信しているが、飛行が終われば彼女らは宇宙飛行士としてしか活用できないだろう。(…)テレシコワはきっと単なる初の女性宇宙飛行士として終わる人間ではないだろう。彼女は利発で、意志があり、皆にとても良い印象を与えている。どんなに高い演壇でも見事に登壇できるかもしれない。テレシコワは有力な社会活動家にしなければならない。彼女はいかなる国際フォーラムでも誇りと輝きを持ってソ連を代表してくれるだろう」。 

 テレシコワは1963年6月16日に宇宙への飛行を成し遂げた。親族にはパラシュート・スポーツ大会に行くと言っていた。彼女が「かもめ」のコールサインを使って宇宙へ行ったことを知ったのはラジオニュースを通じてだった。良いニュースだった。ソ連人女性がほぼ3日間宇宙に滞在し、体調は良好とのことだった。公式の発表としてはこう伝えられた。実際はそうではなかった。

戻れないリスク

 「テレシコワは、遠隔測定のデータでは、基本的に飛行任務をまずまずこなしていた。地上基地との通信は元気がなかった。彼女は自分の動きを厳しく制限していた。ほとんど身動きせずにいた。彼女には明らかに植物性の健康状態への移行が見られた」と「宇宙医学」の創始者の一人、ウラジーミル・ヤズドフスキーは報告している。彼女は船内日誌を付けておらず、予定されていた実験を行うことができなかった。

 ある時テレシコワは過労のため決められた時間外に眠ってしまった。これは厳格に禁じられていた。地上からの連絡に彼女は答えなかった。彼女を起こすことができたのは、もう一人の宇宙飛行士、ワレリー・ブィコフスキーだけだった。彼はテレシコワの飛行を宇宙でサポートするため、彼女の前日に宇宙に行っていた(宇宙飛行士の間で通信ができ、交信して互いをサポートできた。ただし精神面の話だ。当時は2つの宇宙船をドッキングする技術はなかった)。 

 しかし最も恐ろしい試練は吐き気でも、だるさでも、眠気でもなかった。ワレンチナ・テレシコワはこの出来事を30年間黙っていた。宇宙船ボストーク6号には誤った飛行プログラムが入力されていた。軌道を変えて着陸に向かうべき時に、機械が逆の動作を行おうとしたのだ。ボストーク6号は軌道から外れて地球から離れようとした。テレシコワは異変を察知して手動で軌道を修正し、地球に戻ることができた。

 

着陸した後で宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワ、1963年6月

 異常事態はこれだけではなかった。地球に着いたテレシコワは、指示に反して、救助隊が来る前に現地住民と接触して研究用の宇宙チューブをプレゼントし、自身はゆでたジャガイモとクワスをふるまってもらっていた。コロリョフは激怒した。「私の生きている間は二度と女を宇宙に送らない」と彼は誓ったという。

 

もう女性は行かない 

ワレンチナ・テレシコワの服を着ている少女、ロンドン、1963年6月20日

 これ以上女性を宇宙に行かせないという決定にチューブ事件が大きな影響を与えたわけではない。事件は忘れられていった。それよりも、女性の体はこのような負担に適していないという考えが固定化し始めた。まずまずの、しかし理想からは遠い遠隔測定のデータによって、このような任務の合理性が怪しくなったのだ。

 「もう一人の女性飛行士を訓練していたが、セルゲイ・コロリョフは女性の命をリスクに晒さないことを決めた。宇宙飛行士チームのうちの一人にはすでに家庭があったからだ」とテレシコワは話している。「私たちは反対した。このような決定には同意できないと中央委員会に手紙を書いた」と彼女は言う。

ワレンチナ・テレシコワ、ニキータ・フルシチョフ、ワレリー・ブィコフスキー

 ワレンチナ・テレシコワは今なお単独宇宙飛行を成し遂げた世界唯一の女性であり続けている(以後女性は共同任務でしか宇宙に行っていない)。彼女は1997年まで宇宙飛行士チームの一員で、1995年にはロシア軍初の女性将軍となったが、二度と宇宙へ行くことはなかった。その代わり彼女には別の任務が与えられた。

 

政治家になる

宇宙飛行士のアンドリアン・ニコラエフ、ワレンチナ・テレシコワと娘のエレーナ。モスクワ、1970年

 「飛行後テレシコワがどうすべきか議論される間、私はワーリャに社会・政治活動に向けて準備するよう頑強に勧めた。(…)国家レベルの高い演壇に登ることで、我が国における宇宙開発事業に多大な貢献ができると説得した」とニコライ・カマーニンは振り返っている。 

 しかしテレシコワは飛行後に入学した空軍工学アカデミーを卒業して宇宙飛行士訓練センターで指導官・試験官として仕事を続けることを望んでいた。この時までに彼女は宇宙飛行士のアンドリアン・ニコラエフと結婚し、子供も生んでいた。 

1963年

 「この決意の理由として、彼女はここ二、三年で病気がちで疲れやすくなったこと、自分でアリョンカ(彼女は健康状態が良くなく病気がちだったが、乳母はいなかった)の養育がしたいこと、家族の絆を強める必要があること(頻繁に外国へ行ったりモスクワで働いたりことは、できあがった生活の秩序を乱しかねない)を挙げた。ワーリャは目に涙を浮かべて自分のセンターから出さないよう懇願してきた。新しい仕事は彼女を破滅させかねないと言いながら」とカマーニンは綴っている。

 しかし国家の意志は強かった。1966年、テレシコワは社会活動家になった。彼女はソビエト女性委員会、世界平和評議会、国際民主女性連盟など数十の社会組織で登壇し、ソ連の最高会議の議員に選ばれ、その後はロシア連邦下院の議員となった。

 権威と栄光を持つテレシコワはソ連のすべての女性にとって流行の手本になった。「彼女は英雄だった。彼女は美しく、すらりとして、高身長だった。スーツにジャケット、ブラウスを着てリボンを付けるのがとても好きだった。彼女は体形が良かった。彼女は優美で着こなしが良かった」と流行の歴史を研究するアラ・シチパキナは言う

1987年

 テレシコワの衣装は実際に人々の注意を引くものだった。あらゆる委員会とともに世界中をたくさん旅行する彼女は、ソ連の女性には真似できないような服装をしていた。女性たちはテレシコワに軒並み手紙を書き、住居取得待ちの順番で先に進むにはどうしたら良いか、夫の飲酒をやめさせるにはどうすべきかなど、生活に関するあらゆる問題について助言を求めた。返事は来るが、中身は「あなたの相談内容は地区執行委員会に伝えられました」という極めてお役所的なものだった。

 テレシコワはインタビューで自分についてオープンに話すことはなく、私生活についてはあまり知られていない。最初の夫とは1982年に離婚した。彼女はこのことについては、「仕事には黄金、家には暴君」とだけコメントしている。彼女は医務少将のユーリー・シャポシニコフと再婚した。 

ウラジーミル・プーチン大統領とワレンチナ・テレシコワ、2017年

 元宇宙飛行士は2015年からキリスト教価値観保護議員団に入り、慈善基金「世代の記憶」を主導している。テレシコワは2018年の年金受給開始年齢の引き上げなど、最も世論の反応があった法案を支持してきた。2020年、彼女は大統領の在任期間の制限を撤廃する憲法改正案を出した。この改正案はその後可決された。 

 3月6日、ワレンチナ・テレシコワは85歳になった。彼女は今でも国家院の現役議員だ。

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