ソ連時代、人々はどうやって不足していた品を手に入れたのか

Sergey Metelytsa/TASS
 全体的な品不足は、ソ連の人々に通常の方法ではないやり方を学ばせた。紙に包まれた1本のソーセージ、あるいはトイレットペーパーを手にいれるためには何をしなければならなかったか?

 「商品が投げ捨てられた」というフレーズは、ソ連の人々にとって、現在のロシア人とは違う意味合いを持っていた。当時、「投げ捨てられた」というのは、「捨てられた」という意味ではなく、品不足の商品が店頭に並んだという意味で使われていた。そしてその商品は、わずか数時間後にはもうなくなってしまっていた。また、商店に並ぶことなく、「闇市」でしか扱われていない商品もあった。 

 ソ連邦崩壊前の10年、品不足は国全体に蔓延した。ソ連の計画経済は人々の実際の需要を計算しきれなかったのである。タジクの山岳地帯に高価な男性用のスーツが供給されることもあった。しかもサイズは1つ。あらゆる生産活動が国の独占状態であり、民間部門がなく、国家が生産を統制し、需要と供給を無視した固定の値段を設定していたことなどにより、国内ではトイレットペーパーからミカン、石鹸、マッチにいたるあらゆる日用品が慢性的に不足した。

 欲しいものを手にいれるには、頭を使うしかなかった。「頭のいい人は、どこに電話をかけ、どこでそれを手に入れられるかというシステムを知っていました。しかし、一方でそれはとても骨の折れることでした。わたしの家族も、ジャガイモが入っている袋に色を塗って、布製の壁紙にしていたという話を聞きました」と子ども時代をソ連で過ごしたブロガーのエカテリーナさんは話す。

有益なコネを作る

 ソ連映画「人々とマネキン」に、当時を状況をよく特徴づける表現がある。「劇場で初演をしている。最前列には誰が“座っている”?座っているのは地位の高い人たちだ。倉庫主任、商店の代表・・・。市の指導部は倉庫主任が大好き。倉庫主任は品不足の上にあぐらをかいて“座っている”!」。 

 商店、倉庫の主任、あるいは店の店員と仲良くしておくことは、品不足の時代、黄金の価値があった。 なぜなら彼らは何がいつ店に運ばれてくるのかを正確に知っていたからだ。食料品店で40年以上、売り子をしていたクラスノヤルスクのライサ・コブザリさんは、「不足している品―たとえばソーセージが夕方近くに店に運ばれてくると店員の一人が女友達に漏らすと、その女性は『明日、ソーセージが入るらしいわよ』と別の女友達や姉妹、義母や洗礼母、息子や娘の教師、上司たちに、『誰にも言わないでね』と伝えていくわけです。その結果、夜には食料品店の入り口に大勢の人が群れを成すのです」と話している

夜中に行列に並ぶ 

 しかしながら、商品がいつ店頭に出るのかという「秘密の情報」を得ても、それで必ずしも商品を手に入れられるとは限らなかった。品不足の時代、何かを手にいれるには、何時間も行列に並ばなければならなかったのである。ときには夜中から行列につくこともあった。手のひらに番号を書いて、順番を守った。中には、順番だけをとって、その権利を売るだけの人もいた。

 「息子のジャンパーを買うのに4時間並びました。母に息子の面倒を見てもらい、その間に、わたしはまだ開いていないドアに押しかけた、憤怒した群衆の中で押しつぶされていました。店の中には10〜12人ずつしか入れなかったんです。店の反対側に警察があったのですが、客たちが大声をあげるので警官が2人、ドアを壊されないか見守るために駆けつけたのですが、ちょうどドアは蹴破られてしまいました」と話すのはモスクワ近郊に住むイリスさん(ニックネーム)。

 近所に住む人々が、手分けして、様々な商品を手にいれるために別々に並び、あとで買えたものを交換するということもあった。 

闇商売人から買う

 カルーガ州のタチヤナさんは次のように回想している。「わたしの住む地域では、不足していた商品が店頭に並ぶのはいつも通常人々が仕事している時間で、わたしは何も買うことができませんでした。しかも、闇商売人が、ほとんどの商品が置かれている秘密の入り口から、なんでもすぐに買い込んでいました」。

 ソ連では、闇商売は刑法で罰せられる犯罪であり、2年から7年の懲役を科せられた。しかし、当時は、リスクを冒すのを恐れぬ人にとっての黄金時代であった。時間もなく、欲しいものを手にいれる機会さえもない人たちは、闇商売人から、かなり上乗せされた金額で商品を手に入れた。概して、闇商売人は倉庫や商店の主任に「近い」人間であった。「社会主義財産の横領に対する対策部門」はそのような人物を捕まえるための特別作戦を行った。ときに、商店にソーセージや魚などの商品と引き換えに、この作戦があることを知らせる人もいた。

ファルツォフシクから輸入品を買う

 「ファルツォフシク」とは、輸入品を販売していた人のことである。ソ連の店で輸入品を手にいれるのはまったく不可能なことであった(べリョースカという、外交官、軍人、技術専門家などが出張などで手に入れたドルが使える店を除いて)。ファルツォフシクが販売していたのは、外国製のガムやタバコ、電化製品、ジーンズなどであった。

 ファルツォフシクはこうした商品を、ソ連に出張して来た外国人、あるいは仕事上、外国人と密接な関係のある人たち(タクシー運転手、外交官、ガイド、通訳など)から直接購入した。

 ファルツォフシクが売っていた外国製のジーンズは150ルーブル。1970〜1980年代から平均月給は80〜200ルーブルであった。闇商売人同様、ファルツォフシクも違法なものであったが、そこには巨大な地下帝国が作り上げられていた。

別の都市に行く

 さらに、商品を手にいれるために別の都市に出向くこともあった。それはかなり大変な方法であるように思われるが、しかし実際はそうでもなかった。ソ連では、設備が整った都市では、田舎に比べれば、商品をめぐる状況はまだ良好であった。それは、モスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、また国にとって重要な生産を行なっている「閉鎖都市」などであった。そこで、欲しいものが手に入らない人たちは、電車やバスに乗って、設備がより整った最寄りの都市まで出向いたのである。

 「ソ連の品不足時代、何か買うときにはモスクワに行き、4〜6時間、行列に並んだものです。それは日常のことでした。まず、日用品や衣類を買うのに、中心部のグムやツム、ペトロフスキー・パッサージュに行き、それからカリーニン大通りの『モスクヴィチカ』や『シンテチカ』に行き、夕方にはピャトニツカヤ通りの小さな食料品店に寄って、『ジェントルマン・セット』―棒状のチーズ、バター、輸入品のチキン、小さな瓶に入ったマヨネーズ、そして挽きたてのコーヒー豆を買うのです。それからコーヒーやミカン、大好きなソーセージのよい匂いを嗅ぎながら、郊外電車に揺られるのです」とイリスさんは回想する。

 しかし、貧しかった1990年代、モスクワでさえも品不足は極限状態となった。商品は、モスクワに居住権があることを示す「モスクワ市民カード」を見せなければ買えなくなった。このカードの偽造は後を絶たなかったが、「ソーセージ」を求める電車の数は少なくなった。

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