ソ連の領域と構造はどうやってできたか:本当はああなるはずではなかった?

Alexander Kislov
 レーニンの青写真によれば、将来のソ連には、世界中に構成国があったはずだった。しかし結局のところ、スターリンのプランが根付いた。ソ連はどんな理由と経緯で、ああいう領域と構造をもつに至ったのか?

 「何だって?ボリシェヴィキは、自分たちが文字通りたった今破壊したばかりのロシア帝国を再現し始めたのか?」

 1922年に、ソビエト連邦が正式に成立。4つの共和国(ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカースの各ソビエト共和国)で構成される「単一の統一国家」として宣言された。このとき、世界中の人々がこのように考えたに違いない。

 しかし、我々が知っているソ連は、一気に建設されたわけではなく、建国のプロセスもそんなに単純なものではなかった。

「連邦」はいかに準備されたか?

『連邦結成条約の署名式』

 ソ連の「設計」するときに、レーニンとスターリンは、いわば、尋問における「良い警官・悪い警官」の戦術を使ったようなものだ(*「悪い警官」は、被尋問者に対して、攻撃的で否定的な態度をとり、「良い警官」は同情的な態度をとる。被尋問者は、「良い警官」の同情、理解を当てにして、いろんな情報をしゃべってしまう――編集部注)。

 1918年以降、旧ロシア帝国領のほとんどは、複数のソビエト社会主義共和国になった。ヨシフ・スターリンの当初の考えは、すべての共和国をロシア社会主義連邦ソビエト共和国に統合し、これに中央政府と共通の法律をもたせることだった。

 興味深い事実がある。1922年、スターリンはロシアの民族問題人民委員(大臣相当)だった。そして、1917年11月3日にレーニンとともに「ロシア諸民族の権利宣言」に署名したのは、ほかならぬ彼だった。

 権利宣言には、こううたわれていた。「ロシア諸民族は、自決権を有する。それは分離と独立国家形成の権利をも含む」。ところが今やスターリンは、真逆のことを目指していた。

*もっと読む:「革命が起こったロシアの1917年:国はいかに二つの革命を迎えたのか」  

 レーニンは、中央集権国家のアイデアに激しく反対し、それを反民主主義と呼んだ。そして彼は、独立した共和国がそれぞれの政府を保ちつつ平等の権利で結合することを提案した。

 複数の情報によると、レーニンは確かに、ヨーロッパやアジアに多数の国が存在する、より広いソビエト連邦を思い描いていたという。

ソ連は何のために結成されたのか?

『タタール自治ソビエト社会主義共和国を結成する法令の署名』

 ボリシェヴィキの理解によれば、旧ロシア帝国の各地域を単一国家に統合すれば、「周囲の敵対的な『資本主義的環境』に対する立場が強まる」。歴史家アレクサンドル・オルロフはこう述べている

 しかし、ソ連が正式に形成される前にすでに、ボリシェヴィキに必要な連合体は存在していたようだ。それはどうやって生まれたか?

 1920年にロシアとウクライナの間で、1921年にはロシアと白ロシア(現ベラルーシ)、さらにはカフカスの諸共和国の間で、同盟条約が結ばれた。これらの条約によると、ロシア連邦社会主義共和国が、他のすべての共和国を国際社会において代表し、外交文書に署名する権利を有していた。

 また、7つの最も重要な人民委員会議(省に相当)――すなわち、国防、国家経済、貿易、財政、労働、鉄道、郵便、電信――は、すべて一元化されていた。つまり、ロシアの人民委員会議は、ロシアだけでなく他の社会主義共和国でも、それぞれの領域を管轄していたわけだ。

 正式には、ソ連は、1922年12月30日に「結成」されている。

ウラジーミル・レーニンとヨシフ・スターリン

 このとき、ソビエト連邦創設に関する「連邦結成条約」が、ソビエト連邦全連邦ソビエト大会において、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国によって調印された。

 レーニンは、将来的には、すべての社会主義国を「世界社会主義ソビエト共和国」において統合したかった。そして、その基礎としてソ連をつくりたかった。少なくともそれは、ソ連憲法(1924年1月31日)にうたわれていたことだ。しかし結局、ソ連を中央集権的、権威主義的な国家にするというスターリンの計画が勝った。

 

ソ連はなぜ権威主義的な国家になったのか?

ヨシフ・スターリン

 1925年に、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の共産党が、全連邦の共産党(ソビエト連邦共産党)となった。スターリンはこれに先立ち、1922年にロシア共産党の書記長に就任していた。

 例えば、早くも1927年に、ソ連共産党第15回大会は 農業集産化の計画を承認している。 つまり、支配政党が最終決定を下し、政府の決定を方向づける構図になっていた。

 これが「党支配」だ。基本的に、ソ連の国家機関のあらゆる決定は、ソ連共産党がコントロールし、承認した。要するに、党がすべてを支配した。

 しかし、ソ連の指導者たちが、ソ連共産党中央委員会書記長と呼ばれていたことを覚えているだろうか。結局のところ、ソ連共産党に対し、書記長というたった一人の人物が君臨していた。そして、1922~1953年に書記長だったのはヨシフ・スターリンだ。

 ロシア帝国の旧領の多くは、1922年にすぐにソ連の版図になったわけではなく、後に「加わった」。しかし、これらの共和国のほとんどには、独立した政府はなかった。それらは、社会主義共和国であり、ソ連共産党中央委員会によって支配されていた。だから、ソ連に加わるという、これらの国の「決定」は、実際には単なる形式的なものだった。

 1925年にウズベクとトルクメン、1929年にタジク、1936年にカザフ、キルギス、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、1940年にラトビア、リトアニア、エストニア、モルダビアの各共和国はすべて、ソ連の構成共和国となった。だから、それまでのものに加えると、1940年までに、ソ連内に17の共和国が存在していた。

モスクワの全ロシア博覧センターにある「諸民族友好の噴水」。この噴水はソ連を構成する諸民族の友好を表現するシンボルであった。

 そして、これらの17共和国はすべて、実際には中央から統治されていた。つまり、ソ連共産党中央委員会とその書記長が拠点を置いていたモスクワから統治されていたわけだ。

 こうして、スターリンの意図と「設計」が優勢になり、それぞれのソビエト社会主義共和国は、独立した社会主義国家にはならず、代わりにソ連内に「衛星共和国」が残ったにすぎない。

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