さて、皆さん、典型的なソ連のアパートへようこそ!これからソ連のアパートを紹介したい。まずは玄関から見ていくことにしよう。そこにはコート掛けがあり、靴を脱いで、スリッパ(ロシア語でターパチキ)に履き替える場所がある(そう、靴を脱ぐのを忘れずに!)。電話を置く小さな台や鏡があることも多かった。
ソ連の詩人、ベーラ・アフマドゥーリナは自分の家にて、1963年
Miroslav Murazov/Sputnik玄関ホール、ロビー・・・、ほとんどのソ連のアパートの玄関には、これらの言葉はまったく似つかわしくない。大体のアパートの入り口のスペースは2メートルもなかったからである。
たいていそこから廊下があり、それが部屋とキッチンに繋がっていた。集合住宅の廊下はとても大きく作られていて、子どもが走り回れるほどであった。しかしその広いスペースは、普通、物置として使われていた。
ヤロスラヴリ、1991〜1994年
Yuri Baryshev/Aleksandr Akilov's Archive/Russia in photo一方で、「フルシチョフカ」住宅の廊下は驚くほど狭く、1メートルほどの幅しかなかった。
比較的後で作られた新しいアパート(下の写真の家は1980年のモスクワ・オリンピックに先駆けて建設された)には、入り口に少し広めのスペースがあった。
モスクワ・オリンピックの選手村で建設されたアパートの一つ、1981年
A.Kovtun/Sputnik多くのデザインやインテリアは、スペース不足という問題を対処するために考えられていた。1960年代以降に建てられたソ連のほとんどのアパートはとても小さかったため、自転車やソリなど、考えられないようなものも廊下に吊り下げて保管した。
もちろん本棚なども。
モスクワのアパート、1975年
Boris Baranov/Sputnik本棚の話が出たところで、ソ連のアパートのまったく重要な部分について話すことにしよう。
ソ連のアパートには大きな本棚や本入れ(そして廊下には本を読むためのフロアランプ)があった。
いくつもの本棚がまるでテトリスのように組み合わされ、ランダムに壁にかけられていた。
ソ連のアパート、1965〜1970年
Alla Kolesnikova's Archive/Lubov Repkina/Russia in photoそう、ソ連はもっとも読書をする国だったのである。本を置くための場所がないときには、アパートのあちこちに積み重ねられていた。
モスクワのアパートのリビング、1969年
Vasily Noskov/Sputnik次に、ソ連のアパート(そしてソ連の生活)のもっとも大切な場所をお見せする。それはキッチンである。大切な話は必ずキッチンでしたものであった。
朝食の料理中、1952年
David Sholomovich/Sputnikしかしながら、キッチンはどこでもかなり小さく、ときには4人家族がやっとみんなで座れるスペースしかないということもあった。
モスクワのアパートのキッチン、1963年
David Sholomovich/Sputnik普通、キッチンには、カウンター、冷蔵庫、コンロ、シンク、小さいテーブルが置かれていた。
1973年
Anatoly Sergeev-Vasiliev/Sputnikそこにある椅子はたいてい脚が外れるようになっていた。また洋服ダンスの裏などにスペアの椅子が用意してあった。背もたれのある椅子があるようなキッチンはかなり稀であった。それもすべてスペースがなかったというのが理由である。
誕生日など(結婚式も!)のイベントを、大勢の客を招いて家で行うことが多かった。ソ連の人々はレストランに行くお金がなかったからである。訪問客が来ると、キッチンのテーブルをリビングに運んだ(あるいはそんなときのための折りたたみテーブルを別に持っている幸運な家族もいた)。
ディナーが終わると、テーブルを部屋の隅に移動させ、スペースはたちまちダンスフロアーとなった。
家族の祝い、1969〜1974年
Vsevolod Tarasevich/MAMM/MDF/Russia in photoリビングルームがダイニングルームや休息の部屋、仕事場、または両親の寝室(!)として使われていることも多かった。あるいはそれが唯一の寝室で、家族全員がそこで寝ていることもあった(集合住宅では、家族全員が1つの部屋を使っていた)。
同時に、ソ連のアパートにはきちんとした寝室はなく、ダブルベッドを持っている人はソ連にはほとんどいなかった。ほとんどの人はスペースを確保するために折りたたみ式のソファを好んだ。つまり、1日の間に用途に合わせ、広げたり、たたんだりして使ったのである。
1973年
Sergey Lidov/Sputnik学校に通う子どもたちが宿題をするのもリビングだった。
1969年
Yuri Kravchuk/Sputnik子どもが自分の部屋をもつというのは極めて贅沢なことであった。
モスクワのアパートのキッズルーム、1975年
Boris Baranov/Sputnik子どもたちの寝室は兄弟で共有した。または祖父母も一緒ということもあった。
1973年
Valentin Shiyanovsky/Sputnikソ連のアパートにはもう一つ、大きな特徴があった。それは、ソファ、椅子、長椅子・・・、すべての家具がテレビの方向を向いていたということである。テレビは一種のソ連でもっとも重要なものであった。大人は毎日ニュースを見、子どもたちは「おやすみなさい、子どもたち」という子供番組を見た。
1972年
Sergey Solovyov/Sputnikおそらく皆さん、もう絨毯には気がついただろうか。ソ連のすべてのアパートには絨毯があり、大きな絨毯を床に敷くという習慣は今も続いている。ソ連で育った人々にとって、「裸の」床はなんだか「落ち着かない」のである。
そして絨毯は壁にも掛けられていた。その第一の理由は温かさを保つためであった。というのも、ソ連の住宅は寒さに弱かったからである。しかし、壁の絨毯は裕福さを示すものでもあった。
さらに、この壁の絨毯と同じくらいの意味を持つのが、食器棚に飾られたセレモニー用の食器セット、ガラス製品、ティーセットであった。この食器が使われることはけしてなかった。それは食事のために使うのではなく、観賞用で、ごくごく稀にとても特別な機会に取り出され、使われた。「きっと、それは英国の女王やソ連共産党の書記長くらい大切なお客にしか使わなかった」というジョークがあるほどである。
引っ越し祝いするソ連の家族、北極圏、1986年。
Semen Maisterman/TASSアパートは本当に狭く、スペースがなかったものの、人々は本棚だけでなく、ピアノを置くためのスペースは確保した。
ピアノを弾くワレンチナ・テレシコワ(左側)
Aleksandr Mokletsov, Boris Kavashkin/Sputnikギターのためのスペースも。
ソ連の歌手レオニード・ウチョソフ、1964〜1965年
Yuri Abramochkin's Archive/Russia in photoそして、レコードプレーヤーも。
そしてもちろん、スターリンやレーニンの肖像画や胸像も。
ソ連のアパートをお見せしてきたが、もう一つ紹介すべきものがある。それはバルコニーである。アパートの中にはものを置く場所が十分なかったため、バルコニーは花を置いたり、庭用の椅子を置いたりするためではなく、必要のないあらゆるものを置いておく倉庫として使われ、古い木製のスキー板やピクルスを入れるガラス瓶、壊れたテレビやラジオ・・・などが積まれていた。(ロシアのバルコニーに何があるのかはこちらから読みいただけます)。
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