首都移転のアイデアは、数年に一度浮上しては消えており、ときにはそれが実現されたこともあった。古代ルーシから現代のロシア連邦にいたる、千年を超える歴史のなかで、首都は8回移されている。
しかしこれも、現代この問題が提起される頻度を思えば、無きにひとしい。首都移転にはいろんな論拠があり得る。移転すれば汚職対策に役立つだろうとか、首都は国の真ん中(つまりシベリア)にあるべきで、そうすれば国民にもっと便利だろうとか。あるいは、逆にそうしなかったがために――例えば、モスクワ東方3400キロのノヴォシビルスクに移さなかったために――、投資はロシアではなく中国に流れてしまったとか。
いちばん最近この問題が持ち上がったのは、2017年8月のことだったが、モスクワ市長はすぐさま反応し、この手の移転が数兆ルーブルかかることを想起させた。で、移転派は沈黙した。とはいえ、沈黙は長く続かないであろうが。
ロシアの正月休みは9~10 日続き、この間国は公式には仕事をしないことになっている。もっとも正直なところ、既に12月半ばから、何か「真面目な話」をするのは無駄な状況になっているが。
延々と続く休みの果てに、ついに正月料理が鼻につき、テレビの正月番組にアレルギーができると、ロシア人は仕事が恋しくなる。が、仕事に出るや、そんな恋しさが間違いだったことにすぐさま気がつき、次の週末を首を長くして待ち始める。
ぜんぶひっくるめると、ロシアには118日前後の休みがあり(しかも、これは有給休暇をのぞいた数だ)、この方面でのあらゆる世界記録を更新しているかもしれない。
もっともなかには、やたらと長い休みは、「国民の気分や健康に悪影響を与える」と言う者もいる。つまり、低所得層はただ家にじっとして、酒を飲むからというわけだ。その一方で、休みを減らせば、国民が働きすぎて過労に陥るのは必至だという人もいる。いずれの側にも強力な「ロビー」がいるから、多分このままの状態が続くことになるだろう。
ロシア革命指導者、ウラジーミル・レーニンは、「働かざる者食うべからず」と言い、これがソ連への遺訓となった。にもかかわらず、(2)で見たように、驚くほど無為が奨励されている。
ロシア人の大いなる「オブローモフ気質」(イワン・ゴンチャロフの長編小説『オブローモフ』の同名の主人公にもとづく)は、彼らのDNAレベルに潜在しているようだ。
自分と社会のためになることを何かしたいという気はあるのだが、オブローモフは、あれやこれやの仕事に明け暮れる役人にこう言う。「君はいったいいつになったら本当の生活をするんだ?」 。という次第で、ふかふかのソファーに寝そべりながら、人類の運命に思いをいたすほうがマシだということになる。
しかし、何もしなければ貧困に陥る。ところが、自分の貧乏生活を露呈するのもまた恥ずべきことだと考えられているのだ。例えば、モスクワの女性たちは、隣人やボーイフレンドたちに貧乏に見られないために、飯を抜いてFendiのバッグを買う覚悟があるし、地方では高級ブランドの偽物の市場が栄えている。
つまり、こういう不文律があるのだ。もし君が貧乏でも周りに隠せ。隠し通せなければ、誰でもいいから他人のせいにしろ、という。世論調査の結果によれば、一般の意識にはこういう考えがある。物事の成否を決めるのは、コネ、幸運など外的な状況であり、個人的な努力ではないと。
こういう質問をすると、あべこべにこう問い返されるだろう。「その金持ちというのはどのくらいの金持ちなの?誠実さというのはどの程度?」。
ロシアでは、正直なやり方で巨万の富を築くのは不可能で、そのためには必ず誰かを騙したり盗んだりせざるを得ないという牢固たる確信が、まるで新聞には必ず星占いあるように、一般の意識の隅々にまで行き渡っているのだ。
ソ連崩壊後の民営化から26年経った今でも(かつての巨大な国営企業は一瞬にして民間企業となり、ロシアには大金持ちの一群が誕生した)、大半の人は、金持ちはろくでなしだと思っている。かりにあなたが高学歴と才能を備えた企業家だとしても、周囲の人間に、自分が真っ当な人間であることを証明せねばならぬ羽目に陥るだろう(だが、正式の書類の類を見せても無駄だ。そんなものは信用されないから)。
料理のレシピが国民の意識をかき乱す形而上学的なジレンマに変わることがある。例えば、キュウリのピクルスと塩漬けに対するロシア人の考え方だ。両者の非常に微妙な違いを説明することは誰にでもできるわけではない(酢が入っているかいないか、ディルと塩が大量に入っているか否かが決め手なのだが)。
が、誰もがこんな小話をいつまでもおかしがっている。
「え、ドイツにはキュウリの塩漬けがないの?」
「うん、ピクルスだけさ」
「なるほど、だから君たちは戦争に負けたんだね」
両者の区別が誰にでもできるとは限らないのは、誰もが年がら年中キュウリを食べ続けることができないようなものかもしれない。
これはロシアでおそらく最も有名な犯罪者、ロジオン・ラスコーリニコフが自問自答する、その言葉だ。彼は、ドストエフスキーの名作『罪と罰』の主人公で、この本が出た1866年以来、これはロシア人にとって重大な形而上学的問題となった。
ラスコーリニコフは、金貸しの老婆とその妹を惨殺した後で、自分が以前考えた理論を引き合いに出してみたりする。それはつまり、人類は高級な人間(例えばナポレオンのような)と低級な人間に分かれ、前者は、その天稟ゆえに後者の生命を自分の考えで左右できるというものだった。
現代では、この問題は、「哲学する」ときだけに現れるとはかぎらない。親会社や上役との戦いや、安眠の妨げになる窓の下の男の子たちとのバトルでも、アクチュアルなのだ。
ロシアでは2月23日は、「祖国防衛者の日」だ。3月8日の「国際女性デー」と対をなす、「すべての男性の日」である。この日は女性が男性にプレゼントをするのだが、最も一般的なのが靴下あるいはシェービングクリーム。
女性たちが、男性への贈り物はこれが一番と決めたらしいのはずいぶん昔のことだ。残る問題は、だから、二つのうちのどっちにするかということだけ。「ラッキーな男性」は、二つをセットで、つまり「靴下+シェービングクリーム」をもらえる。だから「現実派」は、この日が近づくと、予備を買わずに、「毎年の補充」を待つのだ。
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