サハリン州、1989年8月。 オチェプハ河口で魚を買った家族=V.ティトーフ/タス通信
いくつかの経済危機と何年も続く物不足を経験した人々は、古い不要なものでも、捨て去ることはできない。その結果、そういうモノは長年とっておかれ、いわば過去半世紀の文化、風俗の“層”をなすにいたる。
それらは、いつの日にか役に立つのだろうか?でも、古い木製のスキーやおばあちゃんのテープレコーダーで何ができるか、そうすぐには考え出せまい。
こういう習慣のおかげで、ロシア人は、ソ連時代には、この当時は珍しかったビニール袋のなかに、他のビニール袋を入れてとっておいた。それを捨てるのは浪費だったのだ。今日では、人々はもちろん、これらの袋を洗って何度も使うことはないが、ゴミ袋として使う人は多い。
また、当然のことだが、ソ連の家庭では食べ物を捨てることはなかった。もう期限切れに近くても、誰かが食べるかもしれないし、グレンキのような別の料理の材料に使える。
あるいは、ケーキ「カルトーシュカ」の材料にもなるかも。
ソビエト連邦最高会議代議員、機械搾乳専門家ニーナ・コージナ(左側から3人目)が仲間の村人たちを訪問する。=V.アキモフ/ロシア通信
ロシア人の多くは、何組かの美しい、クリスタルや磁器のセットを持っていて、食器棚にしまっている。これらのセットはたいてい、結婚式や何かの記念日、重要な出来事に際して、プレゼントされたものだ。だから、それらはとても大切にされている。そして、ほとんど決して使われることがない。
そういう家族は、ひび割れたカップで飲んだってかまわなかった。そして、美しいカップを使うにふさわしい“より良い時代”を待っていたのだ。
ワードローブにも、新しい服や新しい靴があったかもしれない。しかし、それらはついに着られる機会のないまま、流行遅れになってしまった。新しいもの、明るいものは、ふだんの生活のためではなく、より良い生活のためのものだった。ただ、その時は決して来なかった…。
ソ連時代、人々は、共産主義の“明るい未来”について夢見ていた。その後、ソ連は崩壊したが、依然として、ロシア人は、テレビリモコンのビニールのラップをとりたがらない。リモコンが傷まないようにと。
オルジョニキーゼ市、北オセチア自治ソビエト社会主義共和国。公園のコンサート=フレッド・グリーンベルグ/ロシア通信
人の顔色をうかがい、非難を恐れつつ、物事を決める。こういう悪慣も、今日まで持ち越されている。
「まあ、あんた何してんのよ!人が見たら何と言うかしら? ほら、あの女の人があんたを見てるでしょ?」
ソ連時代の親はふつう、こんな風に子供たちに教えた。子供たちは成人した後も、無意識のうちに、こういう抽象的な人物の思惑を気にし、彼らに悪く思われることを、一生恐れ続ける。本当は、そんな抽象的な人物など誰もおらず、したがって、誰も気にとめていないのだが。ところがソ連の親は、そのことを決して言ってくれなかったのだ。
工事の食堂の職員が食事を配っている。= ヴィークトル・サドチコフ/タス通信
ロシア人は、過剰なサービスをされると落ち着かない。例えば、店で店員に過度に気配りされると、購買意欲を失いかねない。ファーストフード店でも、トレイは自分で片付けたがる。どんな気配りも配慮も、不信をもって迎える。これは、1917年に「召使いは廃止された」という宣言が出る前でさえ、そうだった。
モスクワ、1991年5月。自転車に乗っている家族=イーゴリ・ウートキン/タス通信
街角で見知らぬ人には微笑まない習慣は、ソ連時代の初期に始まった。この当時、大半の人は、自分がいきなりまったく新しい国にいるのに気がついて愕然とし、新たな支配者に対して不信と警戒感を抱いた。その後の時期も、周知の理由により、それは強まるだけだった。路上で誰か見知らぬ人と出会ったとき、作り笑いを浮かべることはできなかったのだ。ソ連の人々が微笑むのは、心からのときだけ。ということは、微笑むためには、いつも理由が必要だった。
新年パーティー=ボリス・カワシキン/ロシア通信
ロシア人は、大人数で長時間の宴会が大好きだ。たいてい、友人や親戚を片端から動員する。サラダやサンドイッチなどの前菜だけで、テーブルで何時間も過ごすことができ、ふつうの乾杯の辞が詩に変わる。したがって、もしそのディナーがケーキまでたどり着いたとしたら、そのパーティーは失敗だ、とロシアでは言われている。
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