スターリンが好きだったソ連および外国の映画TOP15

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 ソ連の独裁者は、国内で映画上映が厳しく検閲されていた状況で、何を見ていたのか?ヨシフ・スターリンのお気に入りのソビエト映画と外国映画について話そう。

 スターリンは大の映画好きだった。映画マニアの彼には、自分専用の映画館があり、いつも最前列の席に座っていた。安楽椅子と1930年代の 4台の最新式映写機(2台は予備)が、かつての「冬の庭園」(温室)の部屋に設置されていた。これが、クレムリンにあった彼専用の映画館だった。

 クレムリンでの上映開始は遅く、夜9時以降で、午前2~3時に終わった。外国映画もソビエト映画もそこで上映された。後者については、ソ連の新聞が好んで言及していたように、スターリンは、この国の主だった観客であり、検閲者であり、プロデューサーでもあった。では、彼が個人的に好んだのはどんな映画か?我々の調査によれば、以下の映画が彼のTOP15だ。

 1.『陽気な連中』(1934)、グリゴリー・アレクサンドロフ監督

 「この映画は、面白くて楽しい休息の機会を与えてくれる。我々は、ちょうど休日を過ごした後のような感覚を味わった」。1934年にスターリンは、この映画についてこう語った。

 『陽気な連中』はソ連初のミュージカル・コメディであり、芸術の分野で激論が展開されていた1930年代に撮影された。そもそもソ連国民は、滑稽な映画を必要としているか?スターリンはこの論争に終止符を打った。

 しかし、脚本家の運命は「陽気」ではなかった。撮影中、ウラジーミル・マッスとニコライ・エルドマンは、「反革命的な風刺寓話」を広めたとして逮捕された。そして、それぞれ3年間の流刑となった。

2.『肉弾鬼中隊』(The Lost Patrol)(1934)、ジョン・フォード監督

 スターリンは西部劇とジョン・フォード監督のファンで、これが一番のお気に入りだ。彼は、第一次世界大戦を舞台にしたこの映画がとても気に入ったので、そのソ連版『13』の製作を指示したほどだ。彼はまた、ジョン・ウェインが登場する映画が好きで、とくに彼が草原を一人で疾走し、反抗的な街に法と秩序を打ち立てる場面を好んだ。

3.『チャパーエフ』(1934)セルゲイ&ゲオルギー・ワシリエフ

 クレムリンでの映画上映を担当したボリス・シュミャツキーの日記によると、スターリンが完全に沈黙して映画を見たのはこれが初めてだった。そして、その後、彼はさらに37回(!)も見たという。

 ロシア革命後の内戦における赤軍の軍司令官ワシリー・チャパーエフを描いたこの映画は、興行収入で大成功を収めた。監督は3通りのフィナーレを撮影している。採用されたのは、スターリンが自ら選んだものだ。

4.『街の灯』(City Lights)(1931)、チャールズ・チャップリン監督・脚本・製作・主演 

 ご存じ、盲目の花売り娘が放浪者を富豪と間違えた悲しい話。スターリンを含む多くの人々が感動した。ミハイル・ロンム監督は回想録の中で、スターリンが最後のシーンの上映中に突然涙を流したことがあると述べている。

 スターリンは、チャップリンが極めて勤勉で緻密な監督だと考えて、彼の作品を高く評価していた。しかしスターリンは、チャップリンの『独裁者』(The Great Dictator)をソ連で上映することを禁止した。どうやら、自分自身に似ていることを懸念したようだ。

 5.『最後の仮面舞踏会』(1934)、ミハイル・チアウレリ監督

 これは、グルジア初のトーキーだった。最初、スターリンは、「状況が分かりにくく入り組んでいる」ために、革命的な労働者についてのこのメロドラマが気に入らなかった。しかし、3回目に見たときは、ソ連の全能の指導者は、「微妙な皮肉、事件の正しい理解、俳優の優れた演技を称賛した」という。

6.『ヴォルガ・ヴォルガ』(1938)、グリゴリー・アレクサンドロフ監督

 アレクサンドロフ監督のもう一つのミュージカル・コメディ。二つの地方のアマチュア演奏家やパフォーマーのグループが、モスクワで開かれる音楽タレントコンテストに出場して、自分たちだって才能があることを見せてやろう!と考える。そして、ヴォルガ川を旅するというお話。

 この映画は、ソ連における生活と成果を描いた一連の「叙事詩的な」映画の一つとみなされている。具体的には、新たに開通した「モスクワ・ヴォルガ運河」が描かれる(この運河は、1930年代の映画で独自のシンボルになっている)。運河は、グラーグ(強制収容所)の囚人により、多大な犠牲者を出して建設された。

 伝えられるところによると、スターリンはこの映画のコピーを、優れたソ連映画の見本として、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに送ったという。

 繰り返しになるが、映画がスターリンの気に入っても、それが製作者の助けになるとは限らなかった。カメラマンのウラジーミル・ニーリセンは、スパイ活動で有罪判決を受け、映画が公開される3か月前に銃殺刑となった。

7.『巴里の屋根の下』(Sous les toits de Paris)(1930)、ルネ・クレール脚本・監督 

 大衆的で感傷的な三角関係のお話にも見えるが、同志スターリンの共感を呼んだ。「重苦しくなくて」楽しい。「人間の描き方も気持ちがいい」。こう彼は映画について語ったという。フランスでの初演から5年後、ソ連でも公開された。

8.『類猿人ターザン』(Tarzan the Ape Man)(1932)、W・S・ヴァン・ダイク監督

 『ターザン』は、戦利品の映画、フィルムとともにソ連に運ばれたらしい。ポツダム郊外のいわゆる「ゲッベルスのアーカイブ」から、戦後ドイツより運ばれてきた。ロシア国立古文書館には、スターリンがこの映画を上映するように命じた記録がある。

 クレムリンの映写技師アレクサンドル・ガニシンによると、スターリンはこの映画をとても気に入り、ソ連の映画館でも直ちに公開するよう求めた。彼はまた、キャッチコピーを自ら書いた。「この映画は、資本主義世界の恐怖からジャングルに逃げ込み、そこでのみ自由と幸福を見つける男の物語です」

9.『春の序曲』(His Butler's Sister)(1943)、フランク・ボーゼイジ監督

 伝えられるところによると、この米国のミュージカル・コメディは、ルーズベルト米大統領から贈られたものだ。スターリンが女優ディアナ・ダービンをとても気に入っていたことを、ルーズベルトは知っていたという。スターリンは映画を何度か見て、ヒロインがロシア語でロマンスを歌うレストランでのエピソードに感動した。これはソ連の観客にも受けて、映画は大成功を収め、米マスコミはダービンを「モスクワのスクリーンの女王」と呼んだ。

10.『イワン雷帝』(1944)、セルゲイ・エイゼンシュテイン

 イワン雷帝を題材に映画を作るというアイデアは、スターリン自身のものだった。「ロシアの統一者」という強力な統治者のイメージに彼は大いに惹かれていた。

 エイゼンシュテインは2部構成で映画を製作し、第1部は「大元帥」の期待通りだった。ロシアの利益を何よりも重んじるイワン雷帝の壮大なイメージがそこに見出せた。この映画でエイゼンシュテインは、スターリン賞第1席を受賞した。

 一方、1年後に撮影された映画の第2部については、スターリンは、気に入らなかったどころか激怒して、第1部を含めて上映を禁止した。一説によると、彼は、第2部に自分の統治のやり方との不快な類似点を見たからだという。

11.『女友達』(1935)、レオ・アルンシュタム監督 

 三人の女友達は、社会の深刻な不正を意識して生活しており、内戦が始まると、労働者の部隊の看護師として革命下のペトログラード(現サンクトペテルブルク)の街で活動する。スターリンはこの映画の「人を動員する意義」を高く評価した。だが、シナリオを書いたライサ・ワシリエワは 1938 年に強制収容所で「トロツキスト」として銃殺された。

12.『カーチャ』(Katia)(1938)、モーリス・トゥルヌール監督 

 ロシア皇帝アレクサンドル 2 世と若い公爵令嬢カーチャ・ドルゴルーコワの禁断の愛を描いたフランス映画。マルタ・ビベスクの歴史小説を映画化したものだ。この映画は、ソ連で一般公開されることはなかったが、スターリンは自分の映画館で何度か鑑賞した。スターリンの孫であるアレクサンドル・ブルドンスキーの考えでは、彼の祖父は、スクリーン上のできごとを自分の人生の何かと関連付けていたらしい。

13.『脂肪の塊』(1934)、ミハイル・ロンム監督

 ソ連最後の無声映画であり、ミハイル・ロンムの監督デビュー作でもある。その後、彼は、『10月のレーニン』と『1918年のレーニン』を製作するよう提案された(そして、断ることはできなかった)。スターリンは、ギ・ド・モーパッサンの短編が非常に自由に脚色されていることが気に入った。「極めて力強くしかも文化的に構成されており、壮大なスケールで、芸術的に意義深く演出されている」。スターリンはこう語った。

14.『新ガリヴァー』(1935年)、アレクサンドル・プトゥシコ監督

 リリパット国にたどり着いた巨人についての映画だ。スターリンは1週間に4回も見た。そして、もちろん、彼はその中に真のボリシェヴィキのメッセージを見出した。

 「『新ガリヴァー』では、卓越した真実性と力強さをもって、資本主義国のプロレタリアートの武装蜂起の労働運動と戦略の正しさが示されている」

15.『マクシム三部作』、グリゴリー・コージンツェフ監督、レオニード・トラウベルグ監督 

 少年マクシムについての三部作。少年は後に職業革命家となる。『マクシムの青春』(1934)、『マクシムの帰還』(1937)、『ヴィボルグ地区』(1938)の三作だ。

 スターリンは、同じ映画を見れば見るほど、より多くの意味が明らかになると考え、何度も見直した。

 「最初に映画を見たときは、全体像を掴み、全般的な印象を受けただけだった。次にそれを見ると、本質がよく分かり、個々の細部もよく見えてきた。『マクシムの青春』を初めて見たときは好きになれず、冷たい感じがした。それで、私はもう一度見た――良い映画だ」

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