「イワン雷帝」の一部作、1944年
Global Look Press「…エイゼンシュテインのイワン雷帝、第二部。あなた方の中に見た者がいるかどうか知らないが、私は見てきた。あれはひどい代物だ!」ソビエトの指導者ヨシフ・スターリンは1946年8月の共産党幹部会でこう言った。エイゼンシュテインの映画の第一部が第一級のスターリン国家賞を受賞してまだ一年も経っていない時だ。映画を注文したスターリンは、ロシアの第一代ツァーリの姿が映るその映画を楽しんだ。
第一部はイワン4世の治世の始まりを描いている。支配者が実際に雷のごとき恐ろしさを露呈し、高位の貴族層から現実の敵と潜在的な敵とを排除する残酷な政策を始めるより前の時期である。第一部では、イワンは国を偉大にすることを誓い、内外の敵と戦う。これは政治的不安定さが去った後に必要となる行動計画だった。強く自信に満ちたツァーリは彼の公約を実現させていく。国外では長年の宿敵タタール人を破り、国内では皇帝の権力を強めようとする間に貴族たちの陰謀に遭う。
ヨシフ・スターリン、1949年
エフゲニー・ハルデイ/Global Look Pressここまではスターリンにとって何の問題もなかった。ところが、第二部では貴族たちの反対勢力の伸長が描かれ、イワンの治世中最も論争のある時期であるオプリーチニナ、つまり貴族に対する恐怖政治の時期が扱われている。エイゼンシュテインはスターリンの期待に沿う形でそれを描くことができなかった。また監督はツァーリの人格の描き方を誤ったとして嵐のような批判の矢面に立った。
しかしイワンの表象のどこに問題があり、なぜ世界初のプロレタリア国家の指導者にとって中世ロシアの支配者を描き出すことが重要だったのか。答えのいくつかは、監督とスターリン、その他何人かのソビエト高官が出席した1947年2月の会議の議事録に見出すことができる。
「ツァーリ・イワンは偉大で賢明な支配者だった。彼の賢明さは、彼が国家的観点に立ち、外国人を国内に入れなかったという点に表れている。...イワン雷帝はとても残忍な人物だった。彼を残忍な人間として描くことはできるが、彼がなぜ残忍でなければならなかったのか説明しなければならない。イワンに関する誤解の一つとして、彼は五大封建領主の家族を完全に虐殺してはいない。...それなら後で問題もなかったろう。...彼はもっと決断力のある人物だったはずだ。」スターリンはこう述べ、エイゼンシュテインのイワンは「優柔不断でハムレットを思わせる」と指摘している。会議に同席した有名なソビエト高官のアンドレイ・ジダノフによると、監督はツァーリを“ノイローゼ患者”にしてしまった。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督、1930年
Scherl/Global Look Pressツァーリの人格の他に、エイゼンシュテインは貴族との彼の戦いについても異なる見方をしていた。スターリンによれば、イワンが敵と戦うために編成した近衛兵による連隊、オプリーチニキは“正規軍”で“先進的な軍”だった。「あなたはオプリーチニキをクー・クラックス・クランのように描いている。」スターリンはこう言って監督を叱責した。
議事録から読み取れる限り、会話の中には珍しい一場面もある。エイゼンシュテインが、皮肉とも取れる風にソビエトの指導者に反論しているのだ。監督は、クランのメンバーが白いフードをかぶっているのに対し、映画の登場人物は黒のフードをかぶっていると答えている。
概してスターリンは、イワンの恐怖政治に対するエイゼンシュテインの否定的な態度に賛同することができなかった。彼は、恐怖政治は当時国を強くするのに役立ち、国をばらばらにしようと画策する封建領主たちから国を守った進歩的な方策だったと主張した。
「イワン雷帝」、1944年
Global Look Pressこのエピソードから、スターリンが映画に対して特に注意を払っていたことは明らかだ。「スターリンは[他のいかなる芸術形態より]映画の制作を計画することに傾いていた。彼は、現代のイデオロギー闘争という当時の政治状況の観点から特に都合の良さそうな歴史上の既成の人物像を利用するのが常だった。」有名なソビエトの作家コンスタンティン・シモノフは、スターリンの映画に対する態度をこのように説明している。よって、常に心理的な思索に耽る、弱く決断力に欠ける支配者の像は、何のプロパガンダ的役割も果たし得なかったため、スターリンにとっては全く不必要だったのだ。
「イワン雷帝」、1944年
Global Look Pressイワン雷帝の第二部の場合、監督のツァーリとその政策の描き方がスターリンの気に入らなかったのは、この映画がスターリン自身の行いを思わぬ方向に描き出していたからだと推測されることが多い。「この映画を見た人は誰でもツァーリとスターリンとを重ね合わせただろう。スターリンにとっては当然、全くもって受け入れられないことだった。」モスクワ映画博物館の元館長、ナウム・クレイマンはそう主張する。スターリンは明らかに、当時彼の肖像に使われたような、強い支配者の像を好んでいた。イワンによる弾圧も敏感な話題だった。1930年後半にスターリンの承認によってソ連中で粛清の嵐が吹き荒れ、かくも多くの犠牲者が出ていたからだ。
この映画に関して言えば、エイゼンシュテインはそうした“誤り”を正そうとしたと言われている。しかし彼は間もなく亡くなってしまい、彼の映画の第二部は1958年になってようやく、それもディレクターズ・カット版で上演された。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。