アレクサンドル2世の父は、ロシア史の中で最も保守的な君主の一人であるニコライ1世。ニコライ1世はその冷厳さから「パールキン」(パールキンとは棒を意味する名詞パールカからきている人物名で、当時、棒で叩く罰がよく行われていた)と呼ばれ、1848年のハンガリー革命を厳しく押さえ込むと、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになった。
クリミア戦争(1853~1856年)での敗北は、保守的なロシアがヨーロッパの列強から遅れていること、変革の必要性を示した。1855年に皇帝に即位したアレクサンドル2世は、この必要性を痛感する。
歴史学者のラリサ・ザハロワはアレクサンドル2世の改革に関する本にこう書いている。「天性の改革者ではなかったアレクサンドル2世だが、分別と善意のある人物として、時代の要求に応えた」
『農奴解放令の布告を聞く農民たち』ボリス・クストーディエフ, 1907
I. N. Knobel, Russian History in pictures1861年に農奴制が廃止されるまで、中央ロシアの県の農民は、地主に個人的に従属していた。地主は時に、農民を叩き殺したり、売ったり、トランプに負けて引き渡したりすることもあった。当時の国の法律は、公式には農民を殺害することを禁じていたが、地主は重い罰を受けることはなかった。
アレクサンドル2世は改革で農民に個人の自由を与えたが、農民が働いていた土地の大部分は地主の財産のままとなっていた。自分の土地の本当の主になるために、農民は地主から土地を購入しなければならなかった。多くの農民が、このプロセスに数十年を要した。
アレクサンドル2世、1865年
アレクサンドル2世のリベラリズムが反映されたのは、農奴制の廃止だけではない。地方自治制度が導入され、厳しい検閲が緩和され、軍が縮小かつ近代化された。また、高等教育制度を完成させ、大学の独立性が増した。近代化は船舶、金融システムにもおよんだ。
アレクサンドル2世の時代、国は大きく拡大した。ロシア帝国の土地は中央アジアではイランまで、極東では太平洋まで広がった。さらに、北カフカスが完全に征服された。一方で、1867年にアラスカがアメリカに売却され、1875年にサハリンと引き換えに日本にクリル列島が与えられた。アラスカとクリルは当時、遠すぎて防衛が難しいと考えられていた。
歴史的な小話によると、アレクサンドル2世はある時、ロシアの小さな街を訪れ、公祈祷が行われていた教会に行くことに決めた。このような行動を予期していなかった地元の警察署長は、皇帝の道を開けるため、「恭敬を込めて!尊敬を込めて!」と叫びながら、群衆を順番に拳で叩いて押しよけ、アレクサンドル2世の前に進んだ。アレクサンドル2世は警察署長の言葉を聞くと、いかにして恭敬と尊敬をロシアで教えているかよくわかったと言いながら、ずっと笑っていた。
後に一般化したアレクサンドル2世の成語の一つは、皇帝のゆううつに満ちている。「ロシアを治めるのは難しくないが、完全に無駄だ」
アレクサンドル2世とエカテリーナ・ドルゴルーコワ
所蔵写真アレクサンドル2世は皇太子時代の1839年、ロンドンを訪れ、当時の人によれば、若きビクトリア女王に恋したという。だが政治的理由から、恋愛関係など到底無理であった。アレクサンドル2世はロシアに帰国した。長い年月が過ぎた1870年代、バルカン危機によってロシアとイギリスが対立した際、アレクサンドル2世はかつて恋した人について、いかなるロマンティックさもなしに、こう言った。「ああ、あの頑固なばあさんめ!」
恋した相手はビクトリア女王だけではない。ヘッセン大公女のマリア・アレクサンドロヴナと結婚していながら、愛人を持ち続けた。マリア・アレクサンドロヴナの死去後は、そのうちの一人、公爵令嬢のエカテリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコワと結婚した。最初の結婚で8人の子供、2番目の結婚で4人の子供をもうけた。
アレクサンドル2世の時代、ロシアの革命家は、権力闘争の手段として初めてテロを行い、標的を皇帝にしていた。最初の謀殺が試みられたのは1866年。アレクサンドル2世はこれ以外に、4度襲われた。銃撃を受け、爆弾を投げられ、自分の列車も爆破された。
最後の襲撃が致命的になった。サンクトペテルブルクで1881年3月1日、革命組織「人民の意志」のメンバーから皇帝の列に爆弾が投げられ、アレクサンドル2世は負傷し、その数時間後に死亡した。殺害現場には血の上の救世主教会が建設された。ここは街の名所の一つになった。
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