ラーザリ・カガノーヴィチ(左側)とヨシフ・スターリン
Archive photoソ連の建国者レーニンも在世中に、カガノーヴィチに重責を担わせた。仕事熱心で残酷な彼を、スターリンもまた、国の最重要課題を実現すべく任命した。その課題とは、農業集団化の断行、鉄道事情の改善、モスクワ全市の改造、モスクワ地下鉄の建設などだ。
ちなみに、スターリン没後の1955年にいたるまで、モスクワ地下鉄にはカガノーヴィチの名が冠せられていた。レーニンの名がつけられたのはその後のことだ。
カガノーヴィチは、これらの仕事すべてに熱心に取り組んだ。彼の主な「切り札」は人々に恐怖を植え付けることだ。彼はあらゆる分野で「妨害分子」と積極的に戦い、列車の運転手の中にさえスパイを「見つけた」。
ニキータ・フルシチョフの、党での出世を後押ししたのはカガノーヴィチだったが、スターリンの死後は、ソ連の指導者になろうとするフルシチョフを支持しなかった。
フルシチョフは、スターリンの粛清、弾圧に加担したとしてカガノーヴィチを非難して、高い地位から外し、後には党から追放した。
晩年の30年間、カガノーヴィチは年金受給者として孤独のうちに暮らした。かつて威勢を誇ったこの人物に誰もが背を向けた。しかし彼は、自分の信条とスターリンに最後まで忠実だった。
*カガノーヴィチについて詳しくはこちら。
ヴャチェスラフ・モロトフ(左側)とヨシフ・スターリン、モスクワ、1937年。
Anatoliy Garanin/Sputnikスターリンは、モロトフが出会った最初のボリシェヴィキ党員だった。レーニンの死後、モロトフは、党内の権力闘争でスターリンを支持した。スターリンはモロトフに、防衛、工業化、経済成長の問題に当たらせた。
モロトフは、工業分野における五カ年計画を猛烈なテンポで、高いノルマを課して強行し、カガノーヴィチとともに農業集団化を実施した。モロトフはさらに、党が社会の有害分子とみなした人々の「処刑リスト」に署名している。
*もっと読む:「ソ連五カ年計画が払った人的犠牲」
モロトフは、外務人民委員(外相)として世界中で知られている。1939年に彼は、「モロトフ=リッベントロップ協定」と呼ばれる「独ソ不可侵条約」を結んだ。スターリンはモロトフに、第二次世界大戦中のあらゆる外交交渉を委ねた。
スターリンの死後、モロトフは、フルシチョフに対する党内闘争を率いた。しかし後者は、権力を固めると、モロトフから重要ポストを奪い、さらにスターリン時代の犯罪的政策に果たした彼の役割を理由として、党から追放した。
しかし、1986年にモロトフは、共産党に復党し、最年長の党員となったが、同年に死亡する。間もなく97歳の誕生日を迎えるところだった。
*モロトフについて詳しくはこちら。
セルゲイ・キーロフ(中央)、ヨシフ・スターリンと娘のスヴェトラーナ・アリルーエワ、1930年代
Sputnikヴャチェスラフ・モロトフは、キーロフがスターリンのいちばんのお気に入りだと言った。キーロフは、1917年の10月革命の後で、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)に加わった。それ以前は、彼は同党の別の派閥、メンシェヴィキ(少数派)と「つながり」を持っていた。ふつう、スターリンはそういうことを許さず、多くの「反対派」を排除した。しかしスターリンは、キーロフを他の党員の攻撃から守り、党の中央委員会政治局員として、国の主立った指導者の一人に押し上げた。
キーロフは、党指導部の間ではあまり権威がなかったが、カリスマ性があり雄弁だった。彼は、工場の労働者の前でしばしば演説し、そして彼らはキーロフを「身内」として迎えた。キーロフは素朴な態度でふるまい、満面の笑みを浮かべた。
1934年にキーロフは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の執務室の外の廊下で射殺された。殺人犯は拘束されたが(彼は元農民監察部職員で、職場でのトラブルなどのために公職から外されていた)、殺人の動機は今日まで謎のままだ。誰かがこの犯人の背後にいたのか、それとも彼が失職で恨みを抱き、単独で復讐したのかは不明だ。ソ連の秘密警察「内務人民委員部」が、さらにはスターリン自身が糸を引いていたという説はあるが、決定的な証拠はない。
スターリンは、同志の死に対して復讐を命じた。そして、「反対派」の中から、自分がかつて対立したグリゴリー・ジノヴィエフの支持者を見つけるよう指示した。何らかの陰謀があったかどうかは不明だが、キーロフ殺害に続いて、陰謀を疑われた人々の粛清と処刑の波が続いた。これが、スターリンの大粛清の始まりとされる。
クリメント・ヴォロシーロフ(左側)とヨシフ・スターリン、1936年
Anatoliy Garanin/Sputnikこの人物は、政権の最上層部にあり続けた歳月の長さで記録保持者だ。彼は34年以上、党の中央委員会政治局にいた。
革命後の内戦では軍司令官として、南部戦線の全体を指揮した。彼はまた、革命後のペトログラード(現サンクトペテルブルク)の秩序回復を担当し、フェリックス・ジェルジンスキーとともに秘密警察「チェーカー」(正式名称は反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)の創設に関わった。これはNKVD(内務人民委員部)とKGBの前身だ。
ヴォロシーロフは、スターリンに最も忠実な側近の一人であり、レーニンの死後の党内闘争でスターリンを支持した。その後ヴォロシーロフは、『スターリンと赤軍』という本を書き、その中で内戦におけるスターリンの役割を誇大に賞賛した。ソ連最初の元帥の一人であり、軍事改革を行い、国防人民委員(国防相)を務めた。スターリンの側近として、他の多くの「同志」と同じく、処刑リストに署名し、軍司令官たちを粛清した。
スターリンの死後、7年間にわたりヴォロシーロフは、形式的には国家元首に当たる最高会議幹部会議長を務めた(実際は、党書記長が最高権力者だった)。
ヴォロシーロフは長寿を全うし、最晩年まで党および国家機構で要職を占めていた。こうしてヴォロシーロフは、スターリンの側近としては、クレムリンの城壁に葬られた数少ない一人となった。
ラヴレンチー・ベリヤとスターリンの娘スヴェトラーナ
Sputnikベリヤは1917年にボリシェヴィキ党に加わった。内戦中には、秘密警察「チェーカー」のアゼルバイジャン支部で働いた。彼は、諜報・警察のプロになり、その後、グルジア・ソビエト社会主義共和国で、さらにはカフカス全域で治安維持を担当。その後NKVDを率いるようになり、ついには党の最上層部に昇りつめた。
ベリヤは、スターリンの生涯最後の数年間、この独裁者に最も身近な人物になり、ひっきりなしに彼の自宅や別荘を訪れている。スターリンの家族といっしょに撮ったベリヤの写真がたくさん残っている。
ベリヤはまた、核開発プロジェクトと、諸民族の強制移住を担当した。これらの民族は、ドイツ軍の占領下でヒトラーに協力したかどで、民族まるごと僻地に送られた。
ベリヤは、スターリンの政敵レフ・トロツキーの暗殺を担い、ソ連国内の「外国のエージェント」とスパイを盛んに摘発し、粛清した。
また、ベリヤは若い女性や女優をかどわかし、彼女とその親族を粛清すると脅して、関係を強要したりレイプしたりした、と噂されていた。
1953年にスターリンが死ぬと、ベリヤは、自分に不都合な人間を恣意的に処分、処刑し、多数の反ソビエト陰謀を企てたかどで有罪を宣告される(反ソ陰謀の多くは証明不十分だった)。同年、彼は銃殺された。
*ベリヤについて詳しくはこちら。
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