ヴャチェスラフ・モロトフ
Getty Imagesヴャチェスラフ・モロトフ
Getty Imagesモロトフの本名は、ヴャチェスラフ・スクリャービン。しかし後に彼は、より響きが良いものに変えるため、また、自分の吃音を克服しようと願い、「モロトフ」(モロトはロシア語で ハンマーを意味する)に変更した。ロシア中部の商人の家に生まれ、革命運動に参加し、1900年代末から数年間服役している。
後に有名になるボリシェヴィキのなかで最初に友人となったのはヨシフ・スターリン。この関係がモロトフのその後の人生を決定した。彼はどんな職務にあっても、スターリンに献身的かつ忠実だった。
ヨシフ・スターリンとヴャチェスラフ・モロトフ
Global Look Pressソ連の作家コンスタンチン・シーモノフはこう回想している。「モロトフは、スターリンの葬儀での演説で涙を流した唯一の男だった…。他の誰にもまして、スターリンの死で安堵する理由があったにもかかわらず」
1940年代後半には、この一徹なスターリン主義者は、失寵の憂き目にあう。外相のポストから解任。さらにスターリンは、モロトフの妻ポリーナ・ジェムチュジナの逮捕を命じる。シオニストのスパイであるというのが理由で、彼女はカザフに流刑となった(これは濡れ衣だった)。
モロトフは愛妻家だったが、沈黙を守り、忠誠を貫いた。そのような自分への背信があっても、スターリンへの忠実な態度を変えなかった。
モロトフの伝記作者、ワレンチン・ベレジコフはこう書いている。「モロトフは3種類の乾杯しかしなかった。すなわち、『スターリンのために!ポリーナのために!共産主義のために!』。『なぜスターリンのために?彼はポリーナを逮捕し、あなたの生活をほとんど破壊したではないか』と聞かれると、モロトフは『彼は偉大な男だった』と答えた」
1930年代後半、スターリンの「大粛清」の間は、裁判を経ない超法規的な判決が一般的であり、これにモロトフも大きく関与している。彼が「スターリンによる銃殺リスト」に署名した数は372におよぶ(このリストというのは、裁判なしで投獄または銃殺を宣告された人々のこと)。スターリン本人でさえ、署名の数自体はこれより少なく、357である。
後に、年金生活に入ってから、モロトフは処刑された人々の一部が無実だったと認めた。「もちろん、我々は過剰にやりすぎたかもしれない。また、スターリンがそれについて何も知らなかったと言うのも、ばかげているだろうが、彼がそれに責任がある唯一の人間だと決めつけるのも間違いだろう。我々は秘密警察を十分コントロールできていたわけではない」。彼はジャーナリストにこう語った。
ヴャチェスラフ・モロトフ外相(左側)とドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相、11月14日1940年
Global Look Press1939年夏、モロトフ外相とドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定とも呼ばれる)に調印。この協定には、ポーランドの分割とバルト三国のソ連による併合で合意した秘密議定書が付いていた。
しかし、ヒトラーとの駆け引きはうまくいかず、2年後の1941年6月22日、ドイツはソ連を侵略。こうして、大祖国戦争(独ソ戦)が始まった。赤軍は不意を突かれて初戦で重大な敗北を重ねたが、戦争初日にモロトフは、政府を代表してソ連国民に演説した。スターリンは演説を拒んでいた。
「正義はわが方にある。敵は打ち負かされる。勝利は我々のものだ」とモロトフは演説を結んだ。実際、そうなったが、それは約4年の歳月を経て、2千万を超える死者を出した後のことだった。
スターリンの死後すぐに、モロトフは、新たな指導者ニキータ・フルシチョフと対立し、権力の座から滑り落ちた。彼は政府におけるあらゆる地位を失い、1961年には共産党から除名されて、ごく普通の年金受給者として余生を過ごしていくことになる。
それから23年後の1984年にやっと、モロトフは名誉回復され、共産党員に復帰した。当時、人々はこんな冗談を飛ばし、ソ連の「老人支配」をあざ笑った。73歳のソ連指導者コンスタンチン・チェルネンコが94歳のモロトフを後継者に目していると。
実際には、モロトフはその2年後、1986年に、100歳になる4年前に死亡した。
「モロトフ・カクテル」
Global Look Press1939年〜1940年の「冬戦争」(ソ連とフィンランドが戦った)で、フィンランド軍は、火炎瓶を使って、ソ連の戦車やトラックを燃やした。この武器は、瓶にエタノール、タール、ガソリンの混合物を満たしたもので、「モロトフ・カクテル」と呼ばれた。これは、「食べ物といっしょに飲むドリンク」だった。
というのは、ソ連軍がフィンランドに投下していた爆弾についてモロトフは、「ソ連機は空からパンを投下しているのだ」と発言したので、フィンランド人はこれを皮肉って、「モロトフのパン籠」と呼ぶようになったからだ。
ほかにも、モロトフの名にちなんで名付けられたものがいくつかあった。 例えば、1940年から1957年まで、ペルミ市(モスクワ東方1400km)は、彼を記念してモロトフ市と呼ばれた。
今日、人々は主に「モロトフ・カクテル」でモロトフの名前を記憶しているが、「モロトフ」(メキシコのラップロック)や「モロトフ・ソリューション」(アメリカのデスコア)などのバンドもある。
スターリンの外相がこんな名前の使い方を知ったら、あまり有難がらないだろうが、これらのバンドは、彼と同じく、かなりコワモテではある。
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