スターリンの「ホテル・カリフォルニア」:都心のホテルが同志への「罠」に変わる

MAMM/MDF/russiainphoto.ru; Archive photo; Russia Beyond
 ご存じイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」といえば、奇妙なホテルが舞台で、訪れた客はそこを出られなくなるという不気味なストーリーだった。モスクワ都心の、この元高級ホテルの来歴は、それに似たところがあって陰惨だ。通行人は、もしそのことを知っていたら、振り返らずにはいられまい。

 モスクワ都心の有名な目抜き通り「トヴェルスカヤ通り」の10番地に、いわくつきの古い建物がたっている。多くの人は、そんなことは夢にも思わずに通り過ぎてしまう。建物の外観はこんな感じだ。 

 1930年代、ソ連で大粛清が荒れ狂っていた時期、独裁者ヨシフ・スターリンは、この高級ホテルを不吉な罠に変えた。それは、ここにうっかりチェックインした世界中の共産主義者にしかけられたものだった。

 

「ホテル・ルックス」 

 この建物は、ロシア革命のはるか前、1837年に建てられている。成功したロシアのパン屋で起業家のドミトリー・フィリッポフが所有していた。1911年、オーナーは事業を拡大し、建物内のいくつかのスペースを割り当てて、ホテル「フランス」を開業した。

 新たにオープンしたホテルは豪華で、ロビーには列柱が立ち並び、外装は大理石で、ロビーには背の高い鏡があった。しかも、この建物は、モスクワを代表する一大建造物、「赤の広場」のすぐ近くに位置する。金持ちと有名人のための高級ホテルだと喧伝された。

 1917年のロシア革命の結果、権力を握ったボリシェヴィキは、この高級ホテルについて独自の計画を立てた。彼らはそれを国有化し、上にさらに二つの階を建て増しし、部屋数を300に増やして、ホテルの名前を「ルックス」に変えた。ボリシェヴィキ政権のこの「ホテル・ルックス」は、一度に600人の宿泊客を迎えることができた。これが収容限度だった。

 1917年の革命後、多くの共産主義者がソビエト・ロシアに集まってきた。世界共産主義を提唱した国際機関「コミンテルン」の会合に参加した者もあれば、他国の政府による弾圧から逃れてソ連に亡命した者もいた。

ヴィルヘルム・ピーク

 ホテルは、例えば、次のような面々を迎えた。ドイツの共産主義者でドイツ民主共和国(東ドイツ)の指導者となるヴァルター・ウルブリヒト、東ドイツの初代大統領となるヴィルヘルム・ピーク、ドイツ(西ドイツ)の政治家で第二次世界大戦前は共産党に属していたヘルベルト・ヴェーナー、ヒトラーの政敵エルンスト・テールマン、将来の西ベルリン市長エルンスト・ロイター、有名なドイツのジャーナリストでソ連のスパイとなるリヒャルト・ゾルゲ等々。中華人民共和国の初代首相となる周恩来や、ベトナムの革命家ホー・チ・ミンも、このホテルに泊まったことがある。

ホー・チ・ミン

 

不吉な場所

 スターリンによる大粛清が1930年代に始まると、恐怖の波がホテルとその不幸な客をも襲った。多くの者にとっては、ホテルの洗練されたインテリアは、危険極まる罠に変わった。

 宿泊者は、到着時にパスポートを受付係に渡し、ホテルから発行される通行証を渡された。通行証がなければ、誰もホテルの部屋に出入りすることはできなかった。これは実際には、宿泊者がこの仮の宿の人質になり、当局の暗黙の許可なしにはチェックアウトできないことを意味した。

 こうして、ヨーロッパの戦争や政治情勢のせいでここに転がり込んだ客のなかには、このホテルに何年も閉じ込められる者がいた。ホテルでは盗聴器が設定されたが、スタッフが密告者だらけであった。 

 「ルックスは、宿泊客にとっても部外者にとっても不可解な場所だった。そこは、秘密のベールに包まれていた。宿泊者のリストと死亡者の名簿を突き合わせても、誰がいつそこに住んでいたのか、正確には分からない。客の本名は通常、パスポートのそれと一致しなかったし、パスポートの氏名は党での偽名と一致しなかったから」。ホテルに8年間滞在したオーストリアの女流作家ルース・フォン・マイエンブルクはこう書いている

 宿泊者の多くは、スターリンの粛清の犠牲になった。犠牲者は、ソ連で逮捕、拷問、殺害されるか、ナチス・ドイツを含む他国に引き渡された。ドイツに送還された者は当然、逮捕、殺害された。

 ホテルの宿泊客が味わっていた恐るべき状態は、当然のことながら、ホテルの全般的な環境や雰囲気に影響した。戦慄、恐怖、絶望が部屋とホールを満たした。客たちは、ソ連の秘密警察の次の犠牲者は誰かと、戦々恐々としていたから。

 こんな状況の下で、血も凍るような事件が、秘密警察の関与なしでも起きている。

 「私は、権力の中心であるモスクワで育った。それは、国家および国家以外による犯罪の巣窟でもあった。つまり、私は、ゴーリキー通りの、あのホテル・ルックスで育ったわけだ(*現在、この通りは、革命前の名称「トヴェルスカヤ通り」で知られている――編集部注)。私は1938年から1946年までそこに住んでいた。私たちは、自分のホテルで、『パルチザン対ドイツのファシストごっこ』をして遊び、あるときその最中に子供を吊るしてしまったことがある(もちろん偶然そうなったのだが)。しかし、彼を生き返らせることはできなかった」。ホテルの元住人のロルフ・シェリケは語った。彼は、当時はもはや何かの寮に似ていた、このホテルで8年間過ごした。

ゴーリキー通り(現在、この通りは、革命前の名称「トヴェルスカヤ通り」で知られている)

 ソ連の大粛清は1940年代初め、大祖国戦争(独ソ戦)が始まる頃には縮小し、1953年のスターリンの死とともに終わった。欧州の戦争が終わったことで、ホテル・ルックスにまだ滞在していた政治難民も帰国し始める。

ホテル「セントラル(ツェントラーリナヤ)」

 1950年代に、当局は、ホテルの名前を「セントラル(ツェントラーリナヤ)」に変えた。ルックスの時代は終わり、その時代の宿泊者もいなくなった。

 現在、トヴェルスカヤ通り10番地のこの建物は改装中だ。

 かつてホテル・ルックスの内部で繰り広げられていた秘密を、毎日、何千、何万もの人々が、「知らぬが仏」で通り過ぎている。

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる