「日本のソルジェニーツィン」:ソ連の強制収容所で生き延び告発した日本人

Alexander Solzhenitsyn House of Russia Abroad; Getty Images; Alexander Roschenko/ MAMM/ MDF/ russiainphoto.ru; ロシア・ビヨンド
 作家・思想家の勝野金政(かつの・きんまさ、1901~1984)は、社会主義的ユートピアを信じ、最初はパリ、それからモスクワ、そして…あらゆる権利を剥奪されてシベリアの強制収容所に送られた。何万、何十万人もの囚人が斃れるなか、勝野は生き残り、スターリンの粛清システムの恐ろしさについて告発した世界最初の一人となった。

 1930年代から1950年代にかけて、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの下で行われた、国家による粛清は、ソビエト社会を震撼させた。最も控えめな推算でも、78万6千人以上が粛清の犠牲になり、約380万人が刑務所や強制収容所で服役した。

 悪名高き「グラーグ」。これは、ソ連の強制収容所で、正式名称は「強制労働収容所・矯正収容所」だ。その実態を自ら体験し、それを文章に表し、本にした最初の人間の一人は、驚くべきことに日本人の勝野金政(かつの・きんまさ)だった。

 勝野の著作、『凍土地帯―スターリン粛清下での強制収用所体験記』と『赤露脱出記』は、早くも1930年代に日本で出版されている。勝野は、多年にわたる非人道的な奴隷労働を生き延び、祖国に帰ることができた。しかし、そもそも彼はなぜソ連にやって来たのか?

地元紙で狂人呼ばわり 

 勝野金政は、1901年に長野県で生まれ、ごく若い頃から一般の人々の利益を守ろうとしてきた。 早くも15歳のときに、彼は村のクラブで、政府の不正について講演した。

 「その2日後、私は警察に逮捕され、2日間拘留された。この話は我々の村で知れわたり、地元の新聞には、私を狂人呼ばわりした記事が出た」。彼は、1934年にソ連の強制収容所で書いた自伝で、当時を振り返っている。

 もちろん、この若者は狂人などではなく、正義感の強い情熱家で、マルクス主義思想に魅了されていた。勝野は何によらず妥協を拒んだから、常に様々な問題にぶつかった。たとえば、1918年に教育の民主化を求める記事を書いた後、日本大学から放校処分になった。

 この粘り強く才能ある学生は、別の大学、早稲田に入学した。そこで彼は、志を同じくする人々を見出し、彼らとともに左翼的な雑誌を出版し、抗議行動に参加して、二度逮捕された。

 日本に社会主義思想が広がるにつれて、当局は、左翼への取り締まりをますます強化していった。1924年、勝野は日本を離れ、フランスに向かった。

海外の同志のもとへ

 パリでは、この日本の活動家は、すべて一からやり直しだった。食うや食わずの生活、勉強(今度はソルボンヌ大学で)、地元の共産主義者との出会い、抗議活動。

 「パリでは頻繁にデモが行われていた。ある日、共産主義者の女の子が、「あ、日本人だ。あなたも来て!」と言って、私の手を握った。その時の嬉しさを今でも覚えている。フランス共産党に入党すると私は、労働者のストライキの組織化に参加した。間もなく世界革命が起きるような感じがしていた」。勝野は後に回想している

フランスのデモ団体

 日本におけると同様に、仏当局も、勝野の活動に不満で、1928年に国外追放処分とした。

 「革命は、他の国では起こせるかもしれないが、フランスでは駄目だ」。勝野は地元警官の言葉を書き留めている。ソ連が指導していた「コミンテルン」(国際共産主義運動の指導組織)の助けを借りて、彼はドイツ経由でソ連に行った。ソ連では、左翼活動家には何の問題もないように思われたのだが…。

モスクワで罠にはまる

 初めのうちはすべて順調だった。モスクワで勝野は、片山潜に庇護された。片山は、日本の労働運動の草分けの一人であり、コミンテルンの幹部でもあった。勝野は、片山の秘書を務め、モスクワ東洋学院で日本語を教え、ソ連の新聞と日本の地下出版物のために、盛んに執筆した。後者の出版は、コミンテルンが援助した。

片山潜

 勝野は、「労働者と農民の国家」にとどまろうと真剣に思ったこともあったようだ。彼はロシア語を習得し、ソビエト国籍を取り、ロシア名「アレクサンドル・イワノヴィチ」さえもらった。だが、その後まもなく逮捕されて、この名前で、尋問調書に署名する羽目に陥るのだった。

 モスクワ・グラーグ歴史博物館の職員の説明によれば、勝野は、コミンテルンの日本部門の内部闘争の側杖を食ったようだ。彼の「師」、片山の政敵は、片山派を「裏切り」で告発。勝野を含む多くの日本人共産主義者が投獄された。

 「1930年10月末、私は路面電車の停留所に立っていた。雪が舞い、私の顔を冷たく撫でていた。そのとき、何者かが私の腕を強く掴んだ。私は、鳥打帽をかぶった二人のがっしりした男に挟まれていた。そして、ルビャンカにある「OGPU」(*ソ連の秘密警察で、正式名称は「合同国家政治保安部」)の本部に連行された」。勝野は逮捕された日をこう描いている。彼は外国を利するスパイ行為で起訴された。

囚人による大土木工事で

 しかし、OGPUには、勝野が有罪だという証拠はなかった。尋問調書によれば、彼はなぜ学者や軍人と連絡を取り合ったのかと尋ねられ、日本に情報提供したという事実無根の非難を受けた。  

 「私は、スパイ行為の告発が荒唐無稽であることを断固主張する」と勝野は言った。刑務所で過ごした18か月の間に、彼は2回ハンガーストライキを行い、自分を処刑するか釈放するかどちらかにしてくれと要求した。

 代わりに彼は、強制収容所5年の刑を宣告され、最初にケメロヴォ州のマリインスク市近郊のシベリア収容所(モスクワ東方3645キロ)へ、さらにその後は、白海・バルト海運河(モスクワ北方1100キロ)の建設現場に送られた。

白海・バルト海運河の建設に関わった囚人たち

 白海・バルト海運河は、スターリン時代の非人道的な巨大プロジェクトだ。10万人以上の囚人が、20か月で白海とオネガ湖の間に227キロメートルの運河を掘らなければならなかった。それも機械を使わずに、シャベルと手押し車だけでだ。 

 「原始の山の中だ。恐ろしい程静かである。白夜の地平線の彼方、雲の中に光のない日が浮び、鳥の群が飛んでいる。人間の姿の見えない自然の中、そこには文化の影もない。そこへ今、大勢の人間が送りこまれてきたのだ。だが、それは自由のない人間ばかりなのだ。自由のない人間に文化はない。文化とは人間の精神生活の造形である」。勝野は収容所を思い出す。

白海・バルト海運河の建設現場にて

 毎日、午前5時から深夜0時まで、石を砕き、土砂を引きずる。休日も休憩もない。1日のノルマをこなせなかった者は、食事の配給量を減らされた。

 だが、勝野は奇跡的に生き延びた。仕事で重傷を負い、病院に移されて、刑期の終わりまで医者の助手としてそこに残ったからだ。白海・バルト海運河の囚人にとっては稀な幸運だった。さまざまな資料によると、運河の建設中に1万2千人~5万人が死亡している。

さらばソ連 

 1934年6月、勝野は刑期前に釈放された。収容所の実態を目の当たりにし、自ら体験した後、この元活動家は明らかに共産主義に幻滅した。モスクワに帰ると彼は、また逮捕されるのを待たずに、日本大使館に赴き、祖国に送られた。

 早くも1934年夏には、日本の新聞に、ソ連の強制収容所での勝野の体験談とともに、「赤いロシア」の「払拭された幻想」についての記事が出た。日本政府は彼を反共宣伝に利用した。勝野は後に、やはりグラーグについて語ったロシア作家への連想から、「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれるにいたる。しかし勝野は、政治から距離を置いた。

  勝野は回想録を出版し、家業(製材業)と慈善事業に携わり、長寿を全うし、1983年に亡くなった。ロシア政府が、かつてソ連に生きた日本人「アレクサンドル・イワノヴィチ」を完全に名誉回復する13年前のことだ。

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