スターリン時代の強制収容所から生還した有名人TOP6

Pixabay; Getty Images; OGPU USSR
 ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンが統治した時期はまさに恐怖の時代だった。大臣から農民に至るまで、誰もが、ほんの微罪や冤罪で長い刑期あるいは死刑さえ宣告されかねなかった。この記事では、スターリン治下の強制収容所(グラーグ)の恐怖を身をもって味わった6人の著名な人物の物語を紹介する。

 歴史家ヴィクトル・ゼムスコフの指摘によれば、1953年だけに限っても(スターリンの死の年だ)、540万人が獄中にあった。スターリンの統治下(1924~1953年)に投獄された人の総数は、もちろんはるかに多い。何十万、何百万もの犠牲者の中から、我々は、その過酷な運命のためだけでなく、傑出した業績のために記憶されている6人を選んだ。

1. アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918~2008)

 ソルジェニーツィンは赤軍に大尉として勤務していた1945年に逮捕された。スターリンを私信で批判したためだ。ソルジェニーツィンは数学者だったので、最初は通称「シャラシュカ」、すなわち内務省国家保安局特殊研究所で、2年間働いた。ここでの条件は比較的耐えやすいものだったが、間もなくカザフスタン北部の強制収容所に移され、そこで彼は、驚くべき不正と暴力を目撃した。

 ソ連の次の指導者、ニキータ・フルシチョフが1956年にスターリンの個人崇拝を非難し、抑圧の事実を暴露すると、ソルジェニーツィンは名誉回復された。スターリンに関する見解を私信で示したことは犯罪ではないと、国家委員会は結論した。

 1962年に、ソルジェニーツィンは史上初めて、ソ連の強制収容所の囚人についての物語を発表することができた。『イワン・デニーソヴィチの一日』がそれである。この作品は全世界に衝撃を与え、1970年にノーベル文学賞がソルジェニーツィンに授与されることになった。

 しかし、作者は真実を暴く闘いを続け、巨大な作品、すなわち強制収容所の現実とその物語『収容所群島』を準備していった。長年の抑圧の後、1974年に当局はソルジェニーツィンをソ連から追放した。彼が帰国したのはようやくその20年後のことだ。

2.ヴァルラーム・シャラーモフ(1907~1982)

 シャラーモフもまた、強制収容所を生き延びた作家で、収容所の非人道性を描き出した。彼が描いているのは、ソルジェニーツィンよりも一段と暗鬱な世界だ。

 「反革命トロツキスト活動」の罪状で、結局、シャラーモフは3つの刑期を務め、強制収容所で計14年間を過ごす羽目となった。その間、彼は主に、極東の僻地、コルィマの金鉱山で働いた。ここは強制収容所で悪名高く、囚人は、冬季にはマイナス40℃の厳寒のなか、過酷きわまる気候条件で、金その他の金属を採掘しなければならなかった。

  シャラーモフの代表作は、連作短編『コルィマ物語』。収容所の暮らしを描いたもので、今日にいたるまでロシア文学の数ある作品のなかでも最も恐るべきものだ。手段を選ばず生き延びるなかで人間性が失われ、モラルが低下するさま、厳寒、飢餓、奴隷労働のせいで人間が獣に成り下がるさまを示している。

 「強制収容所はあらゆる点でネガティブな“学校”だ。誰一人として、そこから有益なもの、必要なものを得ることはない」。こうシャラーモフは結論している。

3. オシップ・マンデリシュターム(1891~1938)

 マンデリシュタームは、20世紀初めの最も傑出した詩人の一人である。その彼が1933年に『スターリン・エピグラム』を書いたとき、友人の詩人ボリス・パステルナークはそれを「自殺行為」と呼んだ 。確かに、スターリンが文字通り全能だった1930年代に、こんな詩は自殺行為のように響く。

 

私たちは生きている 祖国を足下に感じずに…

私たちの言葉は十歩先にはもう聞こえない。

聞こえるのは あのクレムリンの山男

人殺し 百性殺しの声ばかり

バンバン机を叩き、指さすのは奴ばかり

蹄鉄でも打つように、次々と命令を叩き出し、

ある者は股間、ある者は額、ある者は眉、またある者は目をぶん殴られる

どんな処刑だって奴には気楽なもの

あのオセット人の広い胸

 

 「クレムリンの山男」は、この詩を注意深く聞いたようだ。1934年から1937年まで、マンデリシュタームはヴォロネジ(モスクワ南方500キロ)に流刑となり、その後モスクワに戻ったものの、再び逮捕された。彼は「反ソビエト宣伝」のかどで極東の強制収容所での重労働5年を宣告された。そして、そこへ護送される途中で、衰弱し切って中継監獄でチフスで死亡したという。

4.セルゲイ・コロリョフ(1907~1966)

 科学者セルゲイ・コロリョフは、宇宙産業で働くすべてのロシア人にとって象徴的存在だ。ソ連の宇宙開発計画を担ったのは彼であり、このプログラムによって、ソ連は世界初の人工衛星を打ち上げて軌道に乗せ、1964年には人類初の有人宇宙飛行を成し遂げて宇宙超大国となった。これらすべては、もしコロリョフが強制収容所で死んでいたら実現しなかったろう。収容所で彼はかつて数年間を過ごした。

 1938年、当局はコロリョフを逮捕し、「サボタージュ」のかどで強制収容所での強制労働10年を言い渡した(後に8年に減刑)。彼は悪名高きコルィマで1年を過ごした。ここで彼は、拷問に耐えて生き残った。彼が死なずに済んだのはまったくの僥倖にすぎない。

 その後1940年にコロリョフは、権利を剥奪された他の科学者とともに、秘密の研究所に移されて働くようになった。コロリョフは1950年代を通じてミサイルと宇宙プロジェクトに取り組んだが、彼が完全に名誉回復されたのは1957年のことである。

5. ニコライ・ヴァヴィロフ(1887~1943)

 ニコライ・ヴァヴィロフは、遺伝学者および植物学者。全世界を旅し(オーストラリアと南極を除く)、植物とその特性を研究し、応用植物学研究所に勤務し、小麦、トウモロコシなどの作物を改良し、科学とソ連に献身した。にもかかわらず、それは1930年代の大粛清から彼を救ってくれなかった。彼が唱えた遺伝学は、スターリンによって「偽科学」と決めつけられたので、罰せられるまでさほど時間はかからなかった。

 それは1940年にやって来る。そして、ヴァヴィロフに対する長期の尋問と拷問が始まった。彼はサボタージュを行っただけでなく秘密の「労働農民党」なるもの(これは実在しなかった)を創設したと「自白する」ことを強いられた。

 ヴァヴィロフは死刑を宣告されたが、その後「慈悲」を垂れられた。1942年、ソビエト連邦最高裁判所長官は、死刑を20年間の強制労働に替えた。翌年、ヴァヴィロフは監獄で栄養失調のため死去する。完全な名誉回復がなされたのは、ようやく1954年のこと。彼の「反科学的」研究は、遺伝学の分野に多大な貢献をした。

6. ゲオルギー・ジジョノフ(1915~2005)

 有名な俳優となる前、ゲオルギー・ジジョノフは14年間を刑務所、強制収容所、および流刑先で過ごした。うち6年間はコルィマで、やっとのことで生き延びた。

 「私は、正義や法が行われるだろうという幻想も信仰もなかった。…それはサバイバル、肉体的生存をかけての時々刻々の闘争だった」。ジジョノフはインタビューでこう振り返っている

 ジジョノフの犯した「罪」とは何か?仕事上の旅で、23歳だったジジョノフは、アメリカの外交官に会い、30分間ほど彼と話しただけのことだった。

 彼の兄ボリスが「反ソ活動」で逮捕された事実を考えれば、ジジョノフには公正な裁判のチャンスはまずなかった。ジジョノフは「スパイ活動」に対する刑を宣告され、強制収容所に送られた。彼はそこで生き残ることができ、名誉回復後は、映画界で成功裏にキャリアを築いた。だが彼は、スターリンとその過酷な体制を決して許さなかった。

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