金鉱から収容所に変わったコルィマ

コルィマ地域のブトゥギチャグ収容所のウラン鉱山

コルィマ地域のブトゥギチャグ収容所のウラン鉱山

パヴロフ/RIA Novosti
 ロシア北東部コルィマ地域(日本の北北東約3500キロ)は、深く澄んだ川、広大な森林、豊富な鉱物のある美しい場所。だが、ヨシフ・スターリンの時代に、約80ヶ所の収容所が設置され、暗黒のイメージが定着してしまった。

 ソ連の大人気コメディ映画「ダイヤモンドの腕」(1969年)では、アンドレイ・ミロノフ演じる主役の一人のペテン師が、コルィマから来た男と一緒に食事をする。男は別れ際に嬉しそうに、「ぜひコルィマに遊びに来て」と招待するが、ペテン師はギョッとして「いや、それよりも、こっちに遊びに来て」と招き返す。

 正義を恐れるペテン師が、コルィマを嫌がるのは当然である。長年、収容所を連想させる地名だったのだから。コルィマに送られたのは犯罪者だけではない。スターリンの弾圧が激化した1930年代、多くの無実の人が送られ、収容所で耐え難い苦しみを味わった。

 

金鉱熱

コルィマ地域の金鉱

 コルィマはロシアの尺度からしても、非常に遠い(首都モスクワからは6000キロ離れている)。19世紀末まで、この地には少数先住民族のチュクチ人やエヴェン人がまばらに暮らしているだけで、あまり人がいなかった。

 科学者や探検家がここに豊富な鉱物があるのではないかと言ったことで、状況は変わった。専門家の一人エドゥアルド・アネルトは内戦中、コルィマの金の埋蔵量を3800トンと試算した。大胆な試算だったが、後に本当に豊富な金があったことが明らかになった。

 ソ連の地質学者ユーリー・ビリビンは1928年にここを探検し、下層土にソ連全体の残りの地よりも多くの金が含まれていると主張した。ロシア革命と内戦の混乱が終わると、ソ連は金の埋蔵されている地を完全に国有化できた。収容所物語の始まりである。

 

ダリストロイの地

 表向きには、コルィマの収容所を管理していたのは、GULAG(矯正労働収容所・奉仕労働収容所総局)ではない。スターリンは1931年、金の採掘をできるだけ効率的にするために、ダリストロイ(極北建設総局)という別の機構を創設した。

 ダリストロイはソ連共産党中央委員会の直属信託組織で、コルィマ全体を管理して、金、錫、タングステンを採掘し、同時に辺境の地に市や村をつくり、インフラを整備することを任務としていた。

 まともなインフラも作業条件もない極寒の地コルィマに自発的に行くよう国民を説得するのは難しかったため、当初から収容所の囚人を使うことが決まっていた。最初の囚人のグループが到着したのは1932年11月。ここで働いた1万1000人の誰一人として、冬を乗り越えることができず、警備員や犬も死んだ。1934年頃にようやく、人が何とか生きることのできる基本的な条件が整った。

 

囚人の生活

作家ヴァルラム・シャラモフ、1937年、内務人民委員部の写真

 金の採掘量は増え続け、1940年には年間80トンに達した。これは、コルィマに送られる囚人の数が増えたことが主な理由である。1940年、19万人以上の囚人が、「社会の信頼を取り戻す」ために重労働をした。本当の犯罪者も政治犯も一緒にここで働いていたが、政治犯の方が厳しい状況に置かれていた。

 「収容所は誰にも何も与えなかった。囚人と一般人の誰もが収容所でダメになっていった」と、コルィマの収容所で14年を過ごしたソ連の作家ヴァルラム・シャラモフは書いている。

 シャラモフの「コルィマ物語」には、収容所のひどい生活の様子が描写されている。収容された人はフラフラで、飢え、重労働を強いられ、時にマイナス30℃の中で作業していた。シャラモフの観点からすると、収容所は、人間のほとんど動物的――というよりは多分さらに恐ろしい、人間に内在する性質――を証明する場所となったという。

収容所の終わり

 コルィマの収容所の物語は、スターリンが1953年に死去した後、終焉を迎えた。この時までに金のほとんどが採掘されていたため、大勢の囚人を送る必要はもうなくなっていた。ソ連共産党の政策もこの時期に変わり、大規模な抑圧も終わった。

 ダリストロイは1957年に解散となり、悪名高き収容所は閉鎖された。時が過ぎ、この地域は徐々に改善され、他の地域と同じようになっていった。マガダン州の人は、まだそっちには囚人がたくさんいるのかと聞かれると、笑顔でこう答える。「他の地域と変わらない。もう収容所なんてない」

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