ナチ強制収容所の元囚人の回想

写真提供:ルビンチク氏

写真提供:ルビンチク氏

パーヴェル・マルコヴィチ・ルビンチクさんは、今生きていられるのは偶々運がよかったからにすぎないと 言う。彼は、ナチス・ドイツの強制収容所とゲットーの元囚人で、ホロコースト博物館の創設者だ。ロシアNOWに数々の思い出と、奇跡的に死地を脱した体験を話してくれた。

 パーヴェルさんが独ソ戦に遭遇したのはわずか13歳のとき。1941年6月22日の開戦のわずか2日前に、少年はミンスク近郊のピオネール・キャンプに送られていた。ミンスクは現ベラルーシ共和国の首都だ。6月25日の朝5~6時ころ、つまり早くも開戦の3日後には、戦争はミンスクにも及び、両親たちは子供を引き取りに息せき切ってやって来ていた。彼らの証言では、ミンスク上空は、ドイツ空軍機に覆い尽くされ、空が見えないほどだったという。ミンスクは焼夷弾で炎上していた。「街全体が60メートルほどの高さまで炎に包まれていた。まるで夜の闇がどこに消えてしまったみたいだった」。パーヴェルさんはこう物語る。

 

ゲットーと強制収容所で 

 パーヴェルさんはこういう状況のミンスクに駆けつけたが、そこに両親はいなかった。7月19日には、ユダヤ人を集め、特定の街区に住まわせるべし、とのナチの指令が発せられた。それはゲットーと呼ばれた。

 「孤児院にいたときはまだ食事を与えられたが、そこにはもう“骸骨”しか住んでいなかった。私は手押し車を任され、2ヵ月間にわたり、飢餓でやせ細った骸骨たちを墓場に運び、共同墓地に放り込んだ」

 「その後、我々は強制収容所に移され、武器工場で働かされた。勤務時間は1日14~16時間にも及んだ。食事は1日一回で、それもニシンの頭が入っただけのスープだ。私が再びニシンを口にしたのは、つい2年前のことだった。以前は、見るのも嫌だったからね」

 「私が生き延びられたのは、パウルという名のドイツ人のおかげだ。彼が私のところに鍋を持って来て洗わせるようになったんだけど、鍋の中には食べ物が残っていた。これで私は救われたんだ」

 

奇跡的生還 

 「我々は何重もの有刺鉄線に囲まれており、その周りを兵士が犬を連れて巡回していた。私と仲間は深夜に脱走することにした。ところが夕方、突然、我々は集合を命じられた。誰かが脱走を企てたんだ。その男はつかまり、我々の目の前で殴られ、吊るされた。それでも我々は逃げる決心をした。そういう運命なら仕方ない、明日ここで吊るされようじゃないかって、思ったのさ。

 我々はくぐり穴を掘り、鉄道の方に逃げた。いきなり、まったくの偶然だが、貨物列車が通過した。我々はそれにしがみ付いて逃げた。仲間は地面を引きずられたが、私が引っ張り上げてやった。20キロほど走ってから、我々は疾走する列車から飛び降りた。草の上を下の方に転がり落ちた。もんどりうってごろごろ転がった後、そろそろと自分の体を触ってみたが、手も足もだいじょうぶだった。生きているのを実感したよ。でも、仲間の方はもっと悪い状態だった。

 森の中を10日もさ迷った末、ようやくパルチザン部隊に辿り着くことができた。私と仲間は復讐心が燃え上がって居ても立ってもいられず、何日も眠れなかったほどだ。それで、『何か任務をください』と指令官にしょっちゅうせがんだのさ。彼は時にはしびれを切らして、前任者が帰還できなかったような難しい任務をくれることもあった。でもまあ、私はご覧のとおり生きている」

 

いかにドイツ語を覚えたか 

 「17歳のとき、戦闘で負傷し、脳震盪を起こしたことがあった。私は危うく埋葬されるところだったが、まだ生きてるのに奇跡的に気がついてくれた。治療のために後送されたので、私は両親を探し始めた。ついに見つけたよ!戦後、父は、私に無理やり勉強させた。学校の子供たちのなかに、図体のでかい青年が交じることになったわけだ。ずっと戦場にいたんで、勉強なんて忘れちゃったからね。笑われることもあったよ。私の出来に満足だったのはドイツ語の先生だけさ。だって、強制収容所じゃ、もしドイツ人に何か言われて命令を果たさなかったら、えらいことになるからね。それで我々も、ドイツ語を糞暗記して覚えちゃったってわけ。さもなきゃ、死ぬしかないからね」

 

葬儀委員会の委員長 

 現在、パーヴェルさんは、ナチス・ドイツの強制収容所およびゲットーの元囚人である身体障害者のユダヤ人から成る社会団体を率いているほか、サンクトペテルブルクのホロコースト博物館の創設者でもある。自身、2年間の囚人生活の辛酸を嘗めているパーヴェルさんは、飢餓、強制労働、絶えざる死の恐怖を体験した人すべてを団結させようとしたのだ。

 最初、この団体にはペテルブルク出身者が550人、他のロシア北西地域から70人が入っていたが、この20年間でほぼ半減してしまった。パーヴェルさんは言う。「もう家から外に出ないという人が多い。それで我々が彼らを支え、ホームヘルパーを派遣してるわけだ。ドイツ人女性のボランティアもいるよ」

 パーヴェルさんはため息をつく。「しょっちゅうお葬式で墓地に行くもんで、冗談に自分たちのことを“葬儀部隊”と呼んでいるくらいだ。もうすぐ私もお呼びが来ると思ってるけどね。で、私はみんなに『私はもう引退の潮時ですよ』って言うんだけど、みんなが私と別れたがらないんだ」