ロシア帝国軍で最も勇猛果敢だった軽騎兵連隊

マクシム・ブリノフ/Sputnik
 ヨーロッパでもそうだが、ロシアの軽騎兵は、軍隊のなかでも勇猛果敢、大胆不敵という評価を得ていた。飲酒から喧嘩っ早さにいたる日々の習慣は、その職務の性格によるところが大きかった。

 ナポレオンのもとで軽騎兵師団を率い勇名を馳せたアントワーヌラサール将軍はかつてこう言った。「30歳まで生き延びた軽騎兵などクズだ」(彼も将官でありながら34歳で戦死している)。これはロシアの軽騎兵にも当てはまる。狂気じみた勇敢さで、しばしば戦闘の口火を切った。

 軽騎兵たちは、いの一番に反撃し、電光石火の攻撃を加えた。軽装で軽武装だったから、損害も大きかった。だからこそ平時には、遊びまくり、名誉を死守し、いつでも戦いに出て死ぬ覚悟があった。ロシアのある軍司令官が言ったように、軽騎兵連隊と近衛連隊は、軍人の典型であり、その戦闘的精神を維持するために、ハチャメチャな生活が必要だった。

 

飲酒と軽騎兵

 ロシア最初の軽騎兵連隊は、ピョートル大帝(1世)の時代につくられたが、長続きはしなかった。ロシアで軽騎兵連隊が本格的に発展したのは、18世紀後半からだ。ウクライナのコサック軍がエカテリーナ2世によって再編されて、5つの新設の軽騎兵連隊が生まれ、また軽騎兵近衛連隊も1つ誕生した。それらはほとんどコサックで構成されており、その指揮系統が使われた。また、コサックの勇猛果敢さを引き継ぎ、それに鼓舞されていた。

 では、どんな人間が軽騎兵になったかというと、徴兵された者がたまたま配属されることもあったが、若い健康な男は誰でもなれるチャンスがあった。そのためには、ミンスクやモギリョフ(いずれも現在ベラルーシ領)に出かけなければならなかった。そこで、特定の時期に募集が行われたからだ。

 軽騎兵は平時は酔っ払いの愚か者のように見えなくもなかった。下士官が率いる思い切り陽気な兵士たちは、路上を歩き回り、周りに群がる若い男たちにワインを注いでいた。ワインは連隊の予算から支出され、1人あたり約8ルーブル。1ルーブルで16キロのパンが買えた時代の話だ。男たちはタダの酒にありつこうとしたわけである。そして、ほとんど毎日、軽騎兵はたらふく飲んだ男どもを連れて、連隊の兵舎に戻った。

 軽騎兵の武装は、サーベル、カービン銃(歩兵用小銃より銃身が短い)、ピストルだけ。軍服は派手で、細かい飾りが付き、連隊ごとに異なっており、ハンガリーの初期軽騎兵の軍服に触発されて作られた。

 戦闘での特長は、攻撃のスピードと意表をつくこと。これは勇気のみならず無謀さをも必要とした。そのためには、それにふさわしい肉体を、絶えざる教練、鍛錬でつくり上げねばならなかった。

夜明けから夕暮れまで鍛錬

 ピストルの装填は細心の注意を要するが、それが夕暮れだったり、土砂降りだったり、あるいは騎乗中にやらねばならないとなると、いよいよ難しくなる。しかし、軽騎兵はこれを教え込まれた。そして、装填が遅かったり、空砲を撃ったりした場合は、厳しく罰せられた(例えば、鉄棒で背中を200回打たれる)。これは、軽騎兵の仕事の厳しさの一例にすぎない。

 軽騎兵は午前5時に起床し、まず馬をきれいにして餌を食わせ、その後で自分たちが食事した。一日中、教練、鍛錬に明け暮れ、それは午後6時にようやく終了。時間を告げるのは、ラッパ手で、これはすべての軽騎兵連隊に共通だった。

 ラッパ手は「軽騎兵の貴族」と呼ばれていた。戦闘中に彼らは、陣形を変えたり、移動したり、攻撃したり、後退したりするため合図を与えた。ぜんぶで50種類以上のラッパによる合図があった。これは、とくにギャロップで疾走中には難しかったが、軽騎兵のラッパ手はそれができた。

太く短く生きる

 まず第一に、独特の酒があった。「それはいかにも軍人らしい勇ましい光景だった。床は絨毯で覆われていて、中央には鍋があり、砂糖がラムに浸されて燃えている。周りには宴会の客たちが座っている。砂糖が溶けると、シャンパンが加えられ、準備完了。これが「ジョンカ」(ラム、シャンパン、溶けた砂糖からなる飲み物)で、そいつがピストルに注がれる。こうしてどんちゃん騒ぎが始まるのだ…」。オステン・サッケン伯爵はこう書いている。

 一人で飲むのは、軽騎兵も「まったく恥ずべき行為」とみなしていた。彼らが好む飲み物にはシャンパン、ラム、パンチ、ミントウォッカなどがあった。1〜2ヵ月間何か好きなものを選んで飲み、その後で他のものに切り替えるのが「ちゃんとした嗜み」なのであった。

セルゲイ・ヴォルコンスキー。

 常軌を逸した行為も付き物だった。「我々は酔っぱらって、サンクトペテルブルクのクレストフスキー島に馬を走らせた。それは冬の祭日だった。多くのドイツ人が橇で丘を滑り降りていた。我々は二手に分かれ、群衆を見守っていた。ドイツ人の男や娘が橇に座るや、我々はそいつを下から蹴飛ばした。彼らは尻もちをついて、丘を転がっていった…。この一件の後、サンクトペテルブルク総督バラショフは、私を呼び出し、ツァーリ自身からの叱責を伝えた…」。こう書いているのは、セルゲイ・ヴォルコンスキー。将来のデカブリストの一人で、作家レフ・トルストイの親戚だ。ああ、そんな叱責だけで彼らを止めることができたら!

 「我々は、フランス大使、アルマン・ド・コランクールを憎んでいた(*露仏両国は、1807年にティルジットの和約を結んだものの、ロシアでは次第に、フランスへの反感が高まっていった。フランスが大陸封鎖を強い、イギリスとの貿易を禁じたのが主な理由だった)…。我々の多くは、彼が頻繁に姿を見せる家を訪れることをやめた。しばしば我々の怒りは爆発したが、それはこんな事件も引き起こした。コランクールの居間には、ナポレオンの胸像が玉座風の椅子の上にあって、他の家具はそこにはなかったことを我々は知った。我々はこれをロシアへの侮辱と見なした。ある冬の夜、我々のうちのいく人かは橇に乗って、河岸通りにあった彼の邸宅を通り過ぎざま、この部屋に重い石を投げ込み、窓を壊した。翌日、苦情が持ち込まれ、捜査が行われたが、今日にいたるまで、誰が橇に乗っていたか誰も知らない」。ヴォルコンスキーはこう振り返っている。

 軽騎兵はよく舞踏会に参加した。また、ときにはそれを主催したが、これは裕福な貴族にしかできないことだった。舞踏会では大広間に何百ものロウソクが灯された。だから、舞踏会を開くのは高くついた。食事や飲み物にかかる費用は言わずもがな。

 「彼は1年間に3回も舞踏会を開き、結局、(自分の財産を)蕩尽した」と、詩人アレクサンドル・プーシキンは韻文小説『エフゲニー・オネーギン』に書いている。

 「我々は、踊りの順番を滑稽なものに決めた…ドイツ娘たちをダンスでくたくたにするために。我々は熱狂して、その手順をぜんぶ実行した。つまり、ぶっ倒れるまで踊ったわけだ。可愛いドイツ娘たちは有頂天だった!豪華な夜食をとり、我々は、古代ギリシャのバッカスとアフロディーテに猛烈に“奉仕”した。午前3時にマズルカが始まり、終わったのは朝7時…。我々は、兵士に客たちの外套を、彼らの召使から取り上げ、彼らの馬車をそれぞれの家に帰してしまったので、ほとんどの客が夜明けまで残らねばならなかった…」。こうファディ・ブルガーリンが回想している(*ブルガーリンは才能ある作家、ジャーナリストで、悪名高き御用新聞「北方の蜜蜂」を刊行した。プーシキンとは犬猿の仲だった)。

 ロシアに非常に多くのドイツ人がいるのは、ナポレオン戦争の間に多数のドイツ人がロシアに避難先、逃げ場を求めたためでもある。ロシアの皇帝たちは、民族的にはほとんどドイツ人だったから、ここで彼らは安全に感じた。

 実際のところ、概して軽騎兵というのは、何かに熱中するのが好きであった。エネルギッシュな若者たちは、時間を有益に過ごす機会を逃さなかった。軽騎兵のセルゲイ・マリンは、彼の大隊はまるで手袋を取り替えるみたいに趣味を変えたと、友人に書いている。冬には誰もがチェスをした。春はビリヤード、夏は噴水やカスケード(庭園の階段状に連続した滝)をつくる。秋は皆、狩猟にでかけた。

 

死に向かって突進し、あるいは死と戯れる

 19世紀の軍人のモラルでは、死は人生における当たり前のできごとと考えられ、必要とあらば、平然と受け入れねばならない。

 「弾丸がうなりをあげて飛んできても、瞬きなどするな。戦いにあっては、勇敢に敵を切りまくれ。突撃するときは、馬にしがみつくな、お前の魂を神の御手に委ねよ。必要とあらば、死ぬのみ」

 こんな景気のいい軽騎兵の歌が流行ったことがあった。これは、彼らの死生観を示している。 

 平時でも軽騎兵は、自分の勇気を示す機会があれば、ためらいはしなかった。こういう資質は、兵士、とくに軽騎兵に最も重視されるものだった。それで決闘が、実に多くの決闘が行われた。どんなことでもその口実になった。

 ある軽騎兵少尉は「ブヤノフ(暴れ者)」というあだ名をもっていたが、これは理由があった。彼の最初の決闘は、モスクワで起きたのだが、近衛連隊の将校が、お前の連隊は「へぼ」だと言ったのがきっかけだ。ブヤノフは近衛将校に軽傷を負わせ、降格されたうえ、カフカスに送られた。

 3年後、彼は再び少尉に戻されて、自分の連隊に復帰した。ところがある年、彼は、地方の知事がブヤノフの同僚である将校の妻を侮辱したというので、決闘を申し込んだ。彼は再度、一兵卒に降格され、連隊復帰はようやく4年後のこと。が、またも仲間の将校と決闘。 3回目の降格後、彼の運は尽きた。

 軽騎兵の死への態度はかなり極端なものだった。彼らは、たとえピストルがなくても自分の名誉を守る覚悟があった。1807年、グロドナ軽騎兵連隊は、プロイセン軍とともにナポレオンと戦っていた。宿舎でトランプをやっているときに、プロイセンの将校が、ロシアの軽騎兵、ポドゴリチャニ中将(伯爵)を侮辱した。

 このプロイセンの将校は優れた射手であったので、ピストルを武器に選んだ。伯爵は言った。自分は今ピストルを持っていないが、トランプ投げに生命を賭ける。これで勝ったほうが相手を殺すことにしよう、と。

 2人はゲームを始め、伯爵が勝った。すべての将校が庭に駆けつけた。プロイセンの将校は、トランプ投げで生死を決めるなんて冗談だと思っていた。しかし伯爵は、宿主からライフルを借り、容赦なくその将校を撃ち殺して、こう言った。

 「私は死を冗談のネタになどしない。私がトランプ投げで負けていたら、私は彼の面前に立ち、自分を撃ち殺させただろう」

 

*ロシアの19世紀の物語、エピソードをもっと読んでみたいという方は、作家レフ・トルストイの叔父(父の従兄)にあたる伝説的快男児について、あるいはアルコールを乱用したロシアの指導者についてご覧ください。

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