殺害された4人の皇帝たち

パーヴェル1世の暗殺、1801年3月

パーヴェル1世の暗殺、1801年3月

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 1917年の10月革命で、ボリシェヴィキが政権を奪取して1年後、皇帝ニコライ2世が家族もろとも惨殺されたことは広く知られている。だが、ロシア史上、殺害された皇帝は、このラストエンペラーだけではなかった。ジョージ・R・R・マーティンのホラーをもしのぐ惨劇は、こうして起こった。

1. イワン6世

殺害時23歳

獄吏により殺害  

イワン6世

 イワン6世(イワン・アントーノヴィチ、1740~1764)が、自らの人生を、自分の運命を選んだためしはなかった。イワンは、わずか生後二ヶ月で、死の床にあった女帝アンナから後継指名を受け、即位したからだ。このころは、18世紀のいわゆる「宮廷クーデターの時代」のピークで、皇帝、女帝は、影響力をもつ貴族の“人形つかい”に操られ、目まぐるしく交代している。 イワンをかついだ派閥は、幼子の2ヶ月間の「統治」の後に権力を失い、イワンは投獄された。こうして、イワンは幼時から、僻地の要塞監獄の鉄格子のなかで過ごし、ほとんど誰とも接することはなかった。 イワン6世の惨めな人生は長く続かなかった。1764年、別のクーデターを企てた将校が、イワンを解放しようとした。ところが、獄吏は、こういう場合のマニュアルに従い。かつての幼帝を刺殺してしまった。おそらくイワンは、残酷な18世紀の権力闘争のなかでも、最も無辜の犠牲者だったろう。

2. ピョートル3世

殺害(その可能性が高い)の当時は34歳

殺害者は不明

ピョートル3世

 ドイツ生まれのピョートル3世(1728~1762)は、貴族にも民衆にも不人気で、その治世はわずか6カ月間のみ。近衛軍の将校たちは、ピョートルが彼らをデンマークとの戦いに遣ろうとしているのを憂慮し、ツァーリを打倒し、玉座をその妻、エカテリーナ2世(大帝)に奉った。

 逮捕された皇帝は、サンクトペテルブルク郊外にあるロプシャの宮殿に閉じ込められ、一週間後に死亡したと報告された。何が起こったのかはいまだに不明だ。公式の報告によると、彼は痔疾で死亡したというのだが、これは疑わしい。

 ピョートル監禁の任に当たっていたアレクセイ・オルロフがエカテリーナ2世に宛てた手紙によると、ピョートルが癇癪を起こしてもみ合っているうちに、誤って殺されたという。だが、エカテリーナその人が秘密裏に夫の処刑を命じた、という疑いをもつ者もいる。

3. パーヴェル1世

殺害時は46歳

重臣、将校らにより謀殺

パーヴェル1世

 パーヴェル1世(1754~1801)は、エカテリーナ2世の息子で、その跡を継いだというのに、母を嫌悪し、父ピョートル3世を敬慕した。

 彼は厳格かつ酷薄な支配者で、貴族の立場を強化したエカテリーナ2世の改革の多くを白紙撤回し、時計を元に戻そうとしたが、これが深刻な闘争につながった。貴族たちはクーデターを企てるという形で反応。しかも、歴史家のほとんどは、パーヴェル1世の息子アレクサンドルさえもが、秘密裏に陰謀を支持していたと信じている。

 パーヴェルはその治世の当初から、当然のことながら、潜在的に敵がいることを疑っていたので、サンクトペテルブルク都心に居城「ミハイロフスキー城」を造った。ここにいれば安全で、敵の侵入は難しいと信じ、ほとんどすべての時間をそこで過ごすようになった。

 だが、サンクトペテルブルク総督、ピョートル・パーレンを中心に陰謀が練られ、1801年3月12日、近衛軍将校らが警備をかいくぐってパーヴェルの寝室に侵入。彼らは皇帝を殴打し、スカーフで絞殺した。

 翌朝、彼の息子がアレクサンドル1世として即位した。

 悲惨な死を遂げたパーヴェルは、幽霊となって、いまだにミハイロフスキー城に出没すると信じられている。彼の死後、ここに住もうとする皇帝はいなかった。

4. アレクサンドル2世

殺害時62歳

極左「人民の意志」が暗殺

アレクサンドル2世

 1861年、アレクサンドル2世(1818~1881)は、おそらく、19世紀で最も待望されてきた改革、すなわち何百万人もの農民に自由を与えるべき、農奴制の廃止を行った。にもかかわらず、元農奴は、土地の所有権を得るためには、それを買い取らねばならず、そのためには数十年間、領主のために働き続けなければならなかったから、自由は実感できなかった。

 こうした「欺瞞」は、アレクサンドルの社会に対するリベラルなアプローチとあいまって、社会全般の怒りを呼び起こした(改革の不徹底に不満な者もあれば、既得権益を脅かされ怒る者もあった)。その結果、ラディカルな革命家たちは勢いづき、銃や爆弾で皇帝暗殺を狙うようになる。

 アレクサンドルは、数度の暗殺の試みから難を逃れた。極左「人民の意志」の活動家たちは、ツァーリが来ると想定された、冬宮の部屋を爆破したり、革命家が直接狙撃したりしたが、いずれも失敗。

 ついに暗殺者は、1881年3月1日、皇帝の馬車の近くで爆弾を炸裂させ、コサックの衛兵数人を負傷させた。アレクサンドルは恐れげもなく、負傷者の様子を見に馬車から出てきた。そのとき、ポーランド出身の革命家イグナツィ・フリニェヴィエツキが第二の爆弾を投げ、自分もろとも皇帝を殺した。  

 アレクサンドル2世が暗殺された場所は容易に見つけることができる。彼の息子で跡を継いだアレクサンドル3世は、皇帝の血が流された場所に教会を建てたからだ。 その名は「血の上の救世主教会」。サンクトペテルブルクの中心部で最も壮麗な建物の一つだ。

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