決闘の時代:なぜロシア貴族は命を危険にさらしたか

Legion Media
 ロシアの貴族たちは事実上、ありとあらゆる理由で決闘を行う用意があった。ロシア・ビヨンドが、ロシアにおける「名誉をかけた闘い」のあらましをまとめてみた。

 ピョートル大帝の治世(1682~1725)の18世紀初めに、「ヨーロッパへの窓」から、決闘の伝統も入り込んできたわけだが、ツァーリ自身はそれを全然喜んでいなかった。

 「(決闘に参加したものは)、死んでいようが、生きていようが、しばり首にせよ」。1715年に皇帝はこう命じたが、この厳格な措置はうまくいかなかった。

 実際のところ、こうした刑罰が、ピョートル大帝の治下で適用された記録はない。当時はまだ決闘が、そんなに人気がなかったこともある。ところが、18世紀後半~19世紀初めになると、ロシア貴族の間で決闘が大流行する。なぜだろうか?


戦争の代わり

 19世紀初頭、ロシアはナポレオン戦争を戦い、1812年にフランス皇帝を敗北させた。その後の「諸国民の戦い」が終わると、平和が到来するが、戦場で将校として国のために戦った貴族たちは、平時でも自分の勇敢さを示したかった。

 一方、アレクサンドル・ヴォストリコフは自著『ロシアの決闘の歴史』のなかで、この時代の決闘の流行をこう説明する。決闘で一対一で対決することは、貴族の独自性を示す手段になっていたと。というのは、商人や農民が貴族に戦いを挑むなどということはまったく不可能であったから、自らを守るために戦うことは、貴族の特権だったのだ。

 しかし、それは特権であるだけでなく、義務でもあった。もし誰かに名誉を傷つけられて、相手に命がけの戦いを挑まなかったら、上流社会ではもはや歓迎されなかったであろうから。19世紀には、少なくとも貴族にとっては、それは死よりも悪かったろう。決闘が依然禁止されていたことは問題ではなかった。若い貴族も(そしてあまり若くない貴族も)、ピストルまたは剣で、問題を解決する覚悟があった。


決闘の理由は

 決闘の理由は様々だった。もちろん、その多くのケースが女がらみだった。例えば、夫は、妻と不倫しているという噂の男に、決闘を申し込む(詩人アレクサンドル・プーシキンがフランス士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘で死んだのも、この理由だ)。あるいは、同じ女性に恋している2人の若い男が決闘する。他にもいろんな理由があり得た。

 ちなみに、プーシキンの伝記は、「決闘を行い得るあらゆる理由のリスト」の観を呈している。この大詩人は一種の決闘マニアで、誰かが自分に無礼な態度をとった(ように見えた)といった理由でも、決闘を申し込む男だった。ダンテスとの決闘は、彼の「キャリア」の少なくとも21番目だったのである。

 もっともプーシキンの決闘の大部分(15回)は、実際に発砲するところまでいかず、彼は誰も殺したことはなかった。ふつうは、彼の友人たちが、決闘前の話し合いで問題を解決するのを助けてくれた。

 その結果、プーシキンは謝罪して(相手が謝罪するケースのほうが多かったが)、事なきを得た。にもかかわらず、詩人は常に戦う覚悟ができていた。

 概して、決闘の一般的な理由としては、酔っぱらっての喧嘩、トランプ賭博でのいかさま、まずい冗談から、果ては文学上の論争にまで及んだ。アレクサンドル・ヴォストリコフはこう書いている。「2台の馬車が、同じ通りでどちらも場所を譲らない――決闘。ある男が別の男をうっかり押した――決闘。無作法な態度をとった――決闘」。貴族の多くが、いつでも破裂し得る爆弾のように振舞っていた。


殺しのエチケット

「決闘」映画のシーン、1957年、映画スタジオ「モスフィルム」

 当時はもちろん、決闘のルールはよく知られていた。まず、ある人が誰かを侮辱したとする。それで、決闘の申し込みになるわけだが、侮辱にもいろいろあり得る。相手を「卑劣漢」とか何とか呼んで面罵するとか、平手打ちを食らわすとか。

 怒った相手は、しかし、決闘には直接言及しない――それが禁止されているのを承知しているから。そこで、「ただじゃ済まないぞ!」というようなことを言って、双方は別れる。決闘の不文律によれば、彼らは決闘の前に会うことはできない。

 それから双方は、それぞれ介添え人を選ぶ。自分の代理人となる親友だ。2人の介添え人は、決闘前に会って、侮辱された側の要求を相手側に正式に伝える。介添え人の目的は、一件を無事に解決することだ。

 しかし、彼らの調停が失敗すれば、決闘の日時と場所を決める。通常は、市街からやや離れた場所で、時間は夜明けだった。こうして、決闘の日時、条件が設定される。


決闘の条件

 決闘の条件も様々だった。ふつうロシア人は、剣より拳銃を好んだ。剣だと名手のほうが有利になるが、射撃なら(決闘用の拳銃は正確に狙うのが難しかった)、チャンスはより同等だったからだ。また、剣での決闘は、最初に血が流れたところで終わる慣わしだったが、拳銃だと、一方が死ぬケースがもっと頻繁にあった。

 射手の間の距離は、ヨーロッパでは少なくとも15歩はなければならなかったが、ロシアではそれより短かった。ロシア人は、3歩の距離から撃つことができたのである。その場合、2人の男は、同じスカーフの、それぞれ一方の端をつかみながら、撃ち合った(それは「スカーフの決闘」と呼ばれていた)。こんな条件では、一人は間違いなく死んでしまうだろう。そう、当時ロシアは相当に野蛮だった!

 より標準的なやり方は、撃ち手の間に、緩衝地帯のように、障壁を置くことだった(その距離は10歩)。 撃ち手はそれぞれの障壁から約10歩離れて立つ。そして、いずれの撃ち手にも選択肢があった。障壁まで近づいて撃つか、遠くから狙いを定めて撃つかだ。これがプーシキンが死んだ理由である。ダンテスが最初に撃ち、命中したのだった…。

 

決闘による死者

 こうしてプーシキンも、またやはり有名な詩人ミハイル・レールモントフも、決闘で死んだ。いずれも、ニコライ1世の治世(1825年~1856年)のことだ。この皇帝は、決闘を嫌い、「貴族とは何の関係もない野蛮な行為」と呼んだ。彼の治下では、決闘は、6年~10年の懲役刑を受けた。決闘の件数が減り始めたのは、彼の治世の後からだ。

 時代は下り、貴族以外の人たちも決闘を行うようになると、それは“神聖な”な意味を失っていった。ロシアの作家アントン・チェーホフは、小説『決闘』(1891)のなかで、「そうせざるを得ないから」というので、決闘する2人の男を描いているが、彼らはそのやり方もわきまえていないのである。

 慣習としての決闘は、20世紀初めまでにはなくなり、1917年以降は、その事例は知られていない。ロシア貴族もまた、ボリシェヴィキ革命後には消滅した。

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