ロシア帝国の南極大陸遠征艦隊:ついに「氷に覆われた果てしない大地」を目撃

Kerstin Langenberger/Global Look Press
 イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックら数多くの探検家が探し求めた、地球最南端の「南方大陸」。その存在はついに、1820年1月28日、ロシア帝国の海軍士官率いる遠征艦隊により確認された。危険を冒して南極大陸沿岸に近づいた彼らは、「巨大な氷に覆われた果てしない大地」を目にした。

 「私はそこに陸地があると確信している。私たちはその一部を見てさえいる」と、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックは、世界周航の際に南極海に航海しつつ、こう記している。しかし彼は、南極大陸への到達は、過酷な条件のために至難だと考えた。ロシア人もそれは十分承知していたが、とにかく航海に乗り出した。


海上のライバル

ヴォストーク号とミールヌイ号

 ロシアと英国の両帝国は長い間、海上でしのぎを削ってきた。英国の海洋探検家ジェームズ・クックが、ヨーロッパ人として初めて南極圏に入り、「最南端の陸地を発見した」と報告したとき、その発見がいまや時間の問題であることは明らかだった。しかも、英国のアザラシ漁師はしばしば南極海を航海していた。

 こうした状況から、ロシア人は、英国人がこの新しい土地を発見する可能性が高いことを理解した。しかし、中世以来、ロシア人は分厚い氷の中を航海していたので、その点である程度優位に立っていた。彼らは、氷結しやすい極限的な状況で航海する方法を知っていた。

 19世紀初頭、ナポレオン戦争の時代、ロシアと英国の間では、海での競争も激しさを増した。南極大陸を最初に発見するのは誰か? ロシア海軍提督イワン・クルーゼンシュテルン率いる、ロシア初の世界周航が成し遂げられたとき(1803~1806)、ロシア人は、自分たちがそれを達成できるという自信をもった。


準備

ファビアン・ベリングスハウゼン

 1819年7月16日に、軍艦2隻、ミルヌイ号とヴォストーク号が軍港クロンシュタットから出帆。11月中旬にリオデジャネイロに到着した。この遠征隊の隊長は、41歳のロシア海軍士官ファビアン・ベリングスハウゼン。彼は、クルーゼンシュテルンの世界周航に参加している。これは、ロシア初の南極海最奥部への遠征となった。

 船員たちは十分な準備を積んでいた。壊血病を防ぐのに役立つ、ビタミンCの優れた供給源であるザワークラウト(発酵したキャベツ)とレモンをふんだんに積み込んだ。また、ビタミン源の消費を節約するために、南方への途上にあるあらゆる港に寄り、お金と品物を新鮮な果物と交換した。寒さ対策にかなりの量のラム酒も積んでいた。

 乗組員は、良好な衛生状態を保つために、あらゆる予防措置を講じた。毎日、衣服を虫干しし、頻繁に船室やベッドを清掃した。ロシア式蒸し風呂のバーニャまで備えていた。結局、航海中に死亡したのはただ一人。この不運な男は、南極圏を横断した後、「神経的な熱病」にかかった。

ミハイル・ラザレフ

 ヴォストーク号には、ベリングスハウゼンの指揮のもとに117人の乗組員が乗っており、ミールヌイ号には、31歳の海軍士官ミハイル・ラザレフの指揮下に73人が乗船。

 しかし、2隻の船には差があった。ミールヌイ号は、ロシア海軍の技術者によって建造され、氷の圧力から船を保護する特別な機能を備えていた。一方、ヴォストーク号は、英国の設計に従って造られていたが、いろんな問題に悩まされることになった。この船は遠征中にしばしば修理、修復しなければならず、その弱さが後に、南極大陸発見後の航海のなかで影響を現す。

 船には、船員に加えて、医者、画家、天文学の教授、正教会の司祭も乗り込んでいた。探検家たちは、勤行を行わなければならなかったし、彼らが探し求めている土地に原住民がいたら改宗させようと望んでいた。原住民が敵対的だった場合に備えて、銃と大砲も装備していた。結局、改宗させたり戦ったりする相手はいなかったが、それでも遠征は楽にはならなかった。

 

発見

 リオから船は、南極海域に直行した。その途中で乗組員たちは、ジェームズ・クックが発見し名付けた、サンドウィッチ・ランドなどの新しい土地を見た(実際には、ランドではなく、諸島だったが)。彼らはまた、様々な島を発見し、遠征隊のメンバーの名などを付けた。

 1820年1月28日、2隻の船はついに、南極沿岸に接近し(座標点69º21'28"S 2º14'50"W)、南極本土を発見!見渡す限りの氷に閉じ込められる。ラザレフは、「見渡す限り、巨大な高さの分厚い氷の覆いが広がっている」と報告。これは南極大陸を覆う氷だった。

ボストーク基地

 しかし、南極は夏季とはいえ凄まじい寒さ。ロシア艦隊は、休養と修理のため、オーストラリアのポート・ジャクソン湾に向かった。

 「私たちの船は常に氷の中にあった。海上いたるところで吹きすさぶ風の激しさで、そしてそれ以上に暗黒の闇と、しばしば降りしきる湿った重い雪のせいで、船員たちは苦しみぬいた。厳寒は私たちの航海の間ずっと私たちを苛んだ。そして氷山だ。海上約120メートルもの高さで屹立するものや、直径15マイル以上に達するものがあり、私たちの絶えざる敵であった。私たちは、最大限の予防措置と警戒により自分たちを守らなければならなかった。些細なミスが、私たちの遠征を葬りかねなかった」

 ベリングスハウゼンは、ポート・ジャクソン湾からサンクトペテルブルクのロシア帝国海軍省に送った報告書で、航海の様子をこう描いている。

 そのほぼ1年後、1820年12月に、ロシア艦隊は、さらにこの海域と南極大陸を詳しく記述するために、再び南極圏に戻った。しかし1ヶ月後、ヴォストーク号の状態が悪化し、それ以上の航海が危険になった。

 1821年1月、艦隊は帰国の途に就き、1821年8月5日にクロンシュタットに戻った。そこでは、皇帝アレクサンドル1世が出迎え、隊員たちは、勲章、メダル、地位、栄転など非常な名誉に包まれた。航海は全体で751日を要した。

 ロシア人が次に南極海岸に達し、上陸したのは、実に136年後の1956年だった。ソ連が南極探検を行った際のことで、同大陸にロシア初の観測基地を建設した。基地は第6の大陸を発見した船を記念して、ミールヌイと命名された。

*最初の南極大陸発見者が誰かについては異説もある。その根拠は、ロシア遠征隊が目にしたものは島か氷山であった可能性も捨てきれないというものである。

*ベリングスハウゼンの航路はこちらをご覧いただきたい。南極大陸をほぼぐるりと一周する大航海で、何度も大陸に接近している。

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