北・南極でサバイバル:「9月13日。飛行機見た。堅パン残り22枚」

生理学者アレクサンドル・ザワドフスキー、「ヴォストーク」基地にて

生理学者アレクサンドル・ザワドフスキー、「ヴォストーク」基地にて

G.コポソフ撮影/RIA Novosti
 気温マイナス80℃の場所で人間が生活するというのは、不可能に思える。だが実際には、非人間的な環境下にあっても生き延びることもできる。

 133日間が夜、夏がない。9月の始まりとは、困難な生活の始まりである。ロシアが運営している南極基地は5ヶ所。「ヴォストーク」は唯一南極大陸に位置する基地で、条件は最も過酷である。南極の氷床の上にあり、その下には古代湖ヴォストークがある。一年のうち9ヶ月間、基地は外界と隔たれる。気温はマイナス60~80℃までさがり、飛行機はここに飛んでくることができない。乗り入れすれば、瞬時に凍りついてしまう。

 人がここで最初に対処しなければいけないのは高山病。南極はエルブルス山の頂上ほどに酸素が薄い。症状はさまざまで、うつ状態になる人、涙がでる人がいたり、めまいで倒れることがあったり、睡眠中に無呼吸になることがあったりする。

 「通常、『ヴォストーク』に来た最初の一ヶ月で5~10㌔体重が落ちる。到着して数分後に気分が悪くなった隊員を見たこともある。適時に避難させていなかったら、数日後には肺水腫で低酸素症に陥り、死亡していただろう」と南極隊員セルゲイ・ブシマノフ氏は話す。驚くことに、南極大陸全体が、「キャラメル・バニラ」のような匂いがするのだという。マイナス82℃でこの微妙な香りを感じる。

 エカテリーナ・エリョメンコ映画監督はヴォストークに1ヶ月滞在し、ずっと水中で呼吸しているように感じていた。「私が準備できていなかったこととは、雪の中の洞窟の暮らし。雪が保温してくれるが、生活は潜水艦の中のよう。陽の光の入らない小さな部屋。外にでるにはすごく厚着をしなければいけない。顔にクリームを塗ってマスクをかぶり、長い時間をかけて厚着していく。服を着るだけで30分かかることもある」エリョメンコ監督。

これは通常時の話であって、緊急事態が発生することもある。

南極大陸で電気のない状態に

 1982年、ヴォストークでの最初の越冬の際、ディーゼル発電所がショートし、火災が発生した。消火器は超低温で機能せず、防煙マスクがないために雪をかけて消化することもできなかった。1人が死亡、20人が電気も暖房もないヴォストークに残った。科学装置、暖房用バッテリー、コンロの電源が切れた。食べ物が凍るだけでなく、雪を電気で溶かして水にすることもできなくなるところであった。

1994年、「ヴォストーク」基地

 幸運なことに、ある隊員が、掘削設備に長い間放置されているディーゼル発電機があることを思いだし、居住スペースにそれを持ち込んで、数時間後に動かすことができた。これによって無線機も作動し、モスクワに連絡を取ることができた。隊員たちはそれでも、自力で乗り越えようと努力した。

 ストーブ1台では不十分であったため、ガスボンベと電気溶接をベースにあと5台つくった。ストーブ近くの気温は25~30℃、だが2㍍離れると0℃、それより先はマイナスであった。

ずっと続く極夜で光を得ようと、ロウソクもつくった。地球物理学者はいつでも大量のパラフィンとアスベスト紐を持っている。

北極圏の島に火夫

 独ソ戦中の1942年、北極海航路で、ナチスドイツの巡洋艦がソ連の砕氷船を沈めた。104人の乗員のうち、生き残り、捕虜にとらわれなかったのは、33歳の火夫パーヴェル・ヴァヴィロフのみであった。

 生き残ったソ連の乗員らは救命艇に乗り、そこからナチスドイツの水兵に捕虜としてとらわれていたが、ヴァヴィロフは砕氷船の巨大な弾痕から材木に乗って逃げ、次に空いた救命艇に乗り込んでベルハ島まで2マイル漕いだ。「ロープの結び目が水に浮かんでいるのが見えたから、それをほどいた。救命艇の中には毛布、フエルト・ブーツ、毛皮帽があった。あと、カバンが浮いているのが見えた。中にはタバコ『ズヴェズダ』とマッチが入っていた。次に寝袋を拾い、小麦粉の入った袋が浮いているのを見た。(中略)逆さになった砕氷船の上に犬がいたから、犬を引き込んだ。焦げていて可哀想だった。瀕死の状態だった」

ロシアの工業家アレクサンドル・シビリャコフにちなんで名付けられた砕氷船。 [1849~1933年] 。

 他にもナガン(リボルバー)、斧、板、堅パンの入った樽を拾いあげた。小麦粉の袋に入っていたのはふすまで、これ以外に食べるものはなかった。「ふすまと水に浸した堅パンをバケツに入れて、それを混ぜて熱した。淡水は、雨が降った時に、岩の間の穴にたまる雨水を手ですくってバケツに集めた。バケツ一杯で3~4日はもった。犬は何も食べようとせず、水を飲むだけだった」ヴァヴィロフ。

 島で過ごした34日間について、日記に記録していた。「9月13日土曜日。飛行機を見た。堅パンは残り22枚」。飛行機や船は何度も近くを通り過ぎていたが、ヴァヴィロフの存在に気づかなかった。ある時、船を見かけ、雑巾をふって気づいてもらった。その後飛行機が救出に来たものの、なかなか島に近づくことができなかった。そのため、島に練乳、肉、カカオ、パン、薬、また天候が良くなるのをしばらく待つようにと書かれた手紙の入った袋を島に落として、去って行った。

 9月28日、ようやく救出された。その日の日記には、「引き揚げられた」とだけ書いた。

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