ЪЫЬЭЮЯ――ロシア語を学び始めると、必ずこの文字の組み合わせに遭遇する。そう、これらの文字が、ロシア語アルファベットの掉尾を飾るのだ。まあ、ЭЮЯ はそれなりに理解できるとしても、前の3つは…。
もっとも、軟音符「Ь」については、すでに別に記事を書いているので、今回は「Ы」を見てみよう。ロシア語で発音が最も難しい文字の一つだ。
この文字を最初に笑いのめしてやろうと考えたのは、ソ連時代の喜劇映画監督、レオニード・ガイダイだ。その最高のヒット作の一つ、『作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険』は、3つのエピソードからなり、その一つが、「Ы」を題材にしている。
『作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険』からのシーン
Leonid Gaidai/Mosfilm, 1965実際のところ、この映画では「Ы」は、犯罪者たちの目論見のアホさ加減を表している。彼らは、倉庫からの盗難を演出しようとしている。間抜けな犯罪者の一人が、この作戦を「Ы」と呼ぶことを提案する。そうすれば、「誰も勘付かないだろう」というわけだ。
「Ы 」をググっても、まずこの映画が最初の行に出てきて、その後で「Ы 」に関するウィキペディアの記事が表示される。それくらいのヒット作だった。
しかし、ソ連映画の古典になじみのない若者たちにとっては、「Ы 」はまだ独自のニュアンスをもっている。ネット上の交流では、「Ы」または「Ыыыыы」は、一種の笑いを表しており、「LOL」(laugh out loud)のロシア版といったところだ。
もっとも、ロシア人がふつうに微笑や笑いを表現したいのであれば、括弧を使う。「Ы 」は、例えば、間の抜けた冗談やミームへの皮肉な笑みを表す。
下顎を前方に突き出して、この音を引っぱって、「Ыыыы」と発音してみよう。その感覚がピンとくるだろう。
「Ы 」は、「古代教会スラヴ語」(スラヴ語による最古の文語)に起源がある。まずは、キュリロスとメトディオスの兄弟が、スラヴ語を表記するための最初の文字、「グラゴル文字」を考案した。ついで、その弟子たちが、ギリシア文字をとりいれてキリル文字をつくった。西暦900年前後のことだ。このときに、「Ы 」をはじめ、ほとんどのロシア語文字も生まれたわけである。
988年にキリスト教(正教)が国教として導入されると、この古いキリル文字で文語が発達し始めた。
書き言葉が生まれる以前のスラヴ地域では、「Ы 」の音は(実のところ、硬子音の後に来ることがある「И」〈I〉の一つのバリエーションなのだが)、すべてのスラヴ人に共通しており、ロシア語以外のスラヴ語にもしばらく残っていた。
例えば、チェコ人、スロバキア人、南スラヴ人の「Ы 」は、結局、「И」と一致するに至ったが、ロシア語、ポーランド語(文字「Y」)、ウクライナ語(文字「И」)、ベラルーシ語、およびルシン語では、何らかの形で残っている。
これはロシアの児童が学校で教わる最初の規則の一つだ。いわゆる「シュー音」(Ж, Ш, Щ, Ч)のうち、硬子音であるもの、すなわち「Ж」と「Ш」の後では、「И」の音が来ることはあり得ず、「Ы」の音になる。「жизнь」(生命、人生)、「машина」(機械、車)などがその例だ。
ところが、古代ロシア語では、すべての「シュー音」が軟子音だった(現在では、シュー音のうち軟子音は「Ч」と「Щ」だけだ)。
そのため、すべてのシュー音の後に「И」を書くという規則が定まったのである。軟子音というのは、その音の後にそのまま母音を出そうとすると「И」(I)が出てくるから、「И」が書かれたのは当然だった。
現在でも、ЧИ とか ЩИ の音の組み合わせでは、文字と発音が一致しており、問題ない。
もう一つの問題は、硬子音「Ц」との組み合わせだ(この音も、古代ロシア語では軟子音だった)。硬子音だから、その後の音は、「И」ではなく、「Ы」になるのだが、前者を書くことが多い。例えば、「цифра」(数字)、「цилиндр」(シリンダー、円筒)だ。
語根の部分にЦЫの組み合わせが出てくる単語はあまりない。そういう単語を覚えるために、学校ではこんな文句を習う。
«Цыган на цыпочках цыплёнку цыкнул цыц».
(ジプシーはつま先立ちで、ひよこに「シッ」と言いました)
しかし、単語の語尾にはしばしば「ЦЫ」の組み合わせが出てくる。例えば、所有を表す接尾辞を加えるような場合だ。「курица」(雌鶏)→「курицын」(雌鶏の)。
ちなみに、このようにして多くの名字が生まれている。例えば、「Солженицын」(ソルジェニーツィン)。
また、名詞の複数形の語尾が「Ы」になる場合があるので、「улицы」(「ストリート、通り」の複数形)のようなケースがある。
さらに、形容詞男性形の語尾の一つに「-ый」があるから、「куцый」(短い)のような場合が出てくる。
「Ы」と他の文字の珍しい組み合わせが、カフカスやテュルク系の民族の言語からの借用語に見られる。これらのケースでは、上のような規則は適用されず、「Жы」や「Шы」なども出てくる。カザフスタンの都市「Шымкент」(シムケント)が一例だ。
こういう正書法(つづり方)の背景には、ロシア帝国が隣人たち、つまりシベリア、極東を征服、併合した歴史的経緯がある。
例えば、トゥヴァ共和国の首府は「Кызыл」(クズル)で、ウラルには「Ыджыдпарма」(ウジドパルマ)という山がある。
サハ共和国には「Ыгыатта」(ウガッタ)という川がある。ロシア語の単語が「Ы」で始まることはあり得ないのだが!
それなりに長かったソ連時代に、地名や氏名をロシア語アルファベットで「音訳」する習慣ができたのが、その背景だ。
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