1903年に冬宮で開かれた仮面舞踏会はもっとも豪華でもっとも珍しいもので、そこには当時の政治界のエリートが全員、出席した。ゲストたちは皆、17世紀の衣装をまとって来なければならなかったのだが、その衣装は代々受け継がれてきた宝石で飾られた、高価な布地で作られたきわめて豪華なものであった。ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナは子孫のためにこの舞踏会の様子を記録に残したいと考えたことから、100を超える写真が残されている(なかには現代の画家が色をつけたものもある)。
1913年に、ロマノフ王朝300年を祝って、ペテルブルクで「ロシアン・スタイル」という名前がついたトランプが発売された。トランプにはその舞踏会に参加した人々の肖像画が描かれていた。革命後、ロシア帝国のカード工場は閉鎖されたが、ソ連時代、このトランプの製造が再開された。というのも、当時、トランプは非常に人気のある娯楽だったからである。では誰がこの「ロシアン・スタイル」トランプの絵柄になったのか、見てみよう。
皇帝アレクサンドル2世の孫であるアレクサンドル・ウラジーミロヴィチは、この舞踏会に16世紀から17世紀のファルコナーコスチューム(鷹狩りの衣装)を選んだ。というのも、彼らは宮廷での鷹狩りを率いていたからである。革命後は母親のマリヤ・パヴロヴナとともにフランスに亡命、そこで生涯を閉じた(ロマノフ家の中でも自分たちの財宝を国外に持ち出すことができた数少ないメンバーの1人であった)。公式的には、ロマノフ王朝最後の大公とされている。
最後の皇帝ニコライ2世の妹、クセニヤ・アレクサンドロヴナ(1875〜1960)は舞踏会に貴婦人の衣装を身につけた。扇とココシニク(ロシアの頭飾り)は宝石工場ファベルジェで作られたもので、衣装は1890年に上演された「皇帝ボリス」の皇妃マリヤのイメージで作られた。
未亡人となった母親の皇后マリヤ・フョードロヴナとともに1919年にまずはデンマークに亡命、その後、英国に移住した(マリヤ・フョードロヴナの姉が英国王太后で、ジョージ5世の母親、アレクサンドラ・オブ・デンマークであった)。
革命後、ニコライ2世は弟ミハイル(1878〜1918)のために皇帝の座を退位したため、法的にはロシア帝国の最後の統治者とされたが、実質その直後に権力を放棄、まもなく新政府に逮捕された。その後、ペルミで流刑生活を送り、現地のチェーカーによって処刑された。1903年の写真で、大公は皇太子用の狩の衣装を身につけている。
最後の皇后の姉(1864〜1918)。家庭ではエラと呼ばれていたエリザヴェータ・フョードロヴナは、モスクワ総督のセルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフに嫁いだ。写真では、黒い毛皮で飾られた王女風の豪華な金のドレスを身につけ、頭には宝石のついたココーシニクを付けている。この舞踏会の2年後に、夫が革命家によって暗殺され、エリザヴェータ・フョードロヴナはすべての宝飾品を皆に与え、自身は修道院を設立し、院長となり、奉仕活動を行った。1918年、他の皇族らとともに、ウラル地方のアラパエフスク郊外の鉱山に送られ、生きたまま廃坑に突き落とされ、手榴弾を投げ込まれて殺害された。1990年代、列聖され、ロンドンのウェストミンスター寺院のファサードに銅像が建てられている。
ニコライ2世(1868〜1918)はその壮大な舞踏会のために、ロマノフ王朝2代目の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(1629〜1676)の衣装を選んだ。興味深いことに、その衣装のボタンと刺繍は17世紀に作られたもので、また手に持っている権杖はかつて実際にアレクセイ・ミハイロヴィチが所有していたものである。ダイアモンド、エメラルド、パール、トルマリンで飾られたこの権杖は、現在、モスクワ・クレムリンのダイアモンド庫に保管されている。ロシア最後の皇帝は、エカテリンブルクのイパチェフ館の地下で家族とともに殺害された。
トランプには、ロマノフ家のメンバー以外にも、その側近たちの姿が描かれている。ジナイーダ・ニコラエヴナ(1861〜1939)は大富豪ユスポフ家を代表する人物である。クセニヤ・アレクサンドロヴナの娘イリーナと結婚した息子のフェリクスはグリゴーリー・ラスプーチンを殺害したことで知られる。
ジナイーダ・ユスポワは、1919年に国外に逃亡する際に貯金を持ち出すことができ、一家はパリで悪くない暮らしをした。
ミハイル・グラッベ中将(1868〜1942)は17世紀の帝室の護衛官の格好で舞踏会に現れた。グラッベ中将は革命後も皇帝に忠誠を誓い、パリに亡命したあとも、ロシア帝政連合、ニコライ2世追悼連合などに積極的に参加した。
ニコライ・ガルトゥングについては、この舞踏会に貴族の衣装を身につけ、ハートのキングの絵柄になったということ以外、ほとんど知られていない。
ニコライ2世の母親マリヤ・フョードロヴナと妻のアレクサンドラ・フョードロヴナの女官であるアレクサンドラ・トルスタヤは舞踏会、貴族の衣装で参列した。一方で、ハートのクイーンのイメージはアレクサンドラ・トルスタヤそのものではなく、同じく、舞踏会に貴族の衣装で現れた公女ヴェーラ・クダシェワやソフィヤ・ドゥルノヴォなどのイメージを合わせて作り出したものだという説もある。
もう1つ、舞踏会に参加した3人のイメージを総合して作られたのがハートのジャック。大公アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル2世の息子)の侍従武官だったニコライ・ヴォルコフ(1870〜1954)は、第一次世界大戦時にイギリスに駐在する海軍武官となり、国外で革命を知り、そのまま帰国しなかった。ハートのジャックの絵柄のイメージに使われたもう1人はプレオブラジェンスキー近衛連隊のニコライ・シテル中尉。軍人の衣装を身につけている。そして3人目は鷹狩りの衣装を着た騎馬連隊のアレクセイ・チゼリ准尉である。
貴族の衣装をつけたアレクサンドル・べザク(1864〜1942)はニコライ2世の叔父ニコライ・ミハイロヴィチ大公の侍従武官であった。第一次世界大戦以前に退役し、革命後はフランスに移住。世界中を旅した。
この1枚だけは、1903年の舞踏会には関係のない絵柄が使われている。スペードのキングに描かれているのは、歴史的な画家アレクサンドル・リトフチェンコによる「イギリス大使ホーセイに宝を見せるイワン雷帝」である。
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