=アンドレイ・シャプラン撮影
ウラジーミル・スミルノフさんとマリーナ・スミルノワさん夫婦は、1970年代からラスプーチンの書類、手紙、写真、関連する品などを収集し、ラスプーチンの両親が住んでいた2階建ての古い家を購入して、1991年にロシア初となる私立博物館を開館した。
貴重な展示品の数々
博物館には小さな展示室が2室あるだけだが、夫婦が苦労して探し、サザビーズのオークションで購入し、ラスプーチンを知る人々の子孫から譲り受けたラスプーチンの家の品、珍しい写真や書類など、貴重な展示品が置かれている。また、「ラスプーチン」ウォッカや、まじめな科学研究書からラスプーチンが考案したという料理等まで、さまざまな書籍が展示されている。
夫婦はラスプーチンの正確な生年月日やラスプーチンという姓の由来を定め、フランス・パリに住む曾孫娘のロランス・イオ・ソロヴィヨフさんを見つけた。文学者や歴史家が長年調査していた、出生、家系、子孫などの関連情報をほぼ調べ上げたのだ。
正確な生年月日を突き止める
ウラジーミルさんがチュメニ州のヤルコフ身分事項登録課に問い合わせたところ、1869年1月9日にロシア正教会の司祭が手書きで記した教区簿冊が発見された。そこには、「ポクロフスコエ村の農民エフィム・ヤコヴレヴィッチ・ラスプーチンとその妻、両正教徒の家庭で、息子グリゴリーが誕生した」と書かれていた。ウラジーミルさんは誇らしげにこう話す。「イギリスの百科事典の出版社から、生年月日を修正したという証明書が送られてきました」。
調査を進める過程で、珍事も起こってくる。ウラジーミルさんのもとには、ラスプーチンの子孫だと名乗るニセモノが殺到したのだ。直系子孫やら、婚外子の子孫やら、継承者やら、いろんな人物が現れ、当初きちょうめんに記録していた夫妻も、途中からやらなくなった。
娘は人気の猛獣使いに
ラスプーチンには3人の子供がいたが、子孫を残したのは娘のマリーナ(出生名はマトリョーナ)だけだ。マリーナは白軍の将校である夫のソロヴィヨフと、ウラジオストクから出港したチェコスロヴァキア軍団を運ぶ最後の船で出国したが、夫はまもなく死亡したため、娘たちを育てるために亡命先ではサーカスの猛獣使いとして働いていた。ポスターに書かれる「マリヤ・ラスプーチナ」という名前が、世間では好評だった。
曾孫娘のロランス・イオ・ソロヴィヨフさんは2005年、ポクロフスコエ村を訪れ、博物館に本物の写真と書類を寄贈した。ロランスさんは自分の家系のことを長い間隠し続け、自身の60歳の誕生日に初めて曾祖父の姓を明かした。
“怪僧”か聖者か
ウラジーミルさんは、ラスプーチンに対する「怪僧」や「淫蕩」といったありきたりのイメージについては、学芸員らしく、鵜呑みにはしていない。
「ラスプーチンは自分のお金でポクロフスキー教会を建設し、禁酒同盟を創設し、貧しい人々を助け、自分の子供たちには慈善をほどこすよう教え、肉類や乳製品を食べず、キエフ・ペチェルスキー大修道院(キエフ洞窟修道院)やエルサレムの聖墳墓教会など、さまざまなキリスト教の聖地を巡礼していました。教養がなかったにもかかわらず、聖書を暗記し、その表現力豊かな語り口は、教会の高位聖職者のみならず、皇族をも驚かせました」。
謎は残る
ラスプーチンの人生と同様、その死は偽装と秘密に包まれている。一説では1916年12月17日の夜にサンクトペテルブルクで暗殺されたと言われている。ウラジーミルさんによれば、ラスプーチンはリンチされた上に頭、腹、背中に銃弾を数発浴びせられ、手を前に縛られ、カーテンにくるまれ、強く揺らされて、小ネヴァ川の自殺名所の橋から川に投げ込まれたという。
「皇帝の命令によってラスプーチンの遺体が川から引き上げられた時、縛られていたはずの手は自由になっていて、右手は上向きに上がり、その指はまるでこれから十字を切ろうとしているかのように握りしめられていたといいます」。
ただ他の情報では、川に投げ込まれる時にすでに亡くなっていたとも言われている。
ラスプーチンは亡くなる少し前に、クロンシュタットの聖イオアンと会った。イオアン神父は「あなたの姓は何というのだ」と聞き、ラスプーチンが答えると、「姓の通り、あなたの人生はラスプーチン(自堕落)になる」と告げた。その通りになったと言えるのかもしれない。
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