ロマノフ一家の殺害は儀式的なものだったか?皇帝一家の死にまつわる3つの謎

皇帝ニコライ2世の家族

皇帝ニコライ2世の家族

ウラジーミル・ボイコ/Global Look Press
 ロシア正教会はロシア最後の皇帝とその家族は"儀式的殺害"の被害者となった可能性があると発表し、事件をさらに捜査すべきだと主張した。1918年にエカテリンブルクで起きた悲劇には、殺害事件の性質の他に少なくともあと2つの謎がある。ロシア・ビヨンドが検証する。

1. 暗号化されたメッセージ

 「我々は儀式的殺害説について真剣に検討している。[ロマノフ一家殺害事件についての]教会調査委員会のメンバーの多くが、殺害が儀式的な性格のものであったと確信している。」ロシア正教会で影響力を持つティホン主教が、皇帝一家の死について議論する会合でこう発言した。

 この発言でその場は騒然となった。この悲劇的な事件についての反ユダヤ的な側面をほのめかすものだと受け取る人がいたためだ。このためティホン主教はいくらか弁明を加えた。彼の指摘によれば、「皇帝は退位後も象徴的かつ神聖な人物であり続けた」。「ボリシェヴィキも、彼らを支持者らも、全く思いがけず姿を変えて残った象徴性に対してかなり馴染みがあった」と彼は言った。

 自分の発言に反ユダヤ的な解釈はあり得ない、と彼は力を込めて主張した。しかし“儀式的殺害”という言葉は、主教の反論にもかかわらず議論を焚きつけた。これは、事件の直後に唱えられた儀式的殺害説が、明確に反ユダヤ的な色合いを帯びたものだったことによる。

ニコライ2世一家が銃殺されたイパチエフ館。壁は探索者により銃弾などの証拠の探索で引き剥がされていた。

 この説の出所となったのは、1919年に王家殺害事件の捜査を任された人々だ。捜査官らはボリシェヴィキの政敵である白系の人々の中から抜擢された。捜査に近かった英国の記者ロバート・ウィルトンは数年後に出版された自著において、ロマノフ一家が殺害されたエカテリンブルグの屋敷の基礎部分に見つかったヘブライ神秘主義的な碑文(つまりはユダヤ教に起源を持つ神秘主義的で難解な儀礼に関係するもの)について記している。碑文の内容は、“1918 года”[1918年の]、“148467878 p”そして“87888”。これらが捜査の過程で実際に記録されていたことが明らかになっている。

 とはいえ捜査官らはこれに注意を払わなかった。しかしロシア系移住者のミハイル・スカリャティンは違った。1920年代半ばに彼は自分がこの文字列を解読することに成功したと発表した。彼の主張では、これは次のような隠されたメッセージなのだという。「ここで、秘密の勢力の指示により、皇帝はロシアを破壊するための犠牲にされた。全民族がこのことを告知されている。」“秘密の勢力”とはこの場合、混沌とその結果の世界支配を切望しているとデマが流されていたユダヤ人のことを意味した。この発見は後にロシア移民のうちナチスにシンパシーを持つグループの間で広まった。

2. 斬首をめぐる憶測

 “儀式的殺害”の件と密接に関わっているのが、今日まで議論され続け、一層ぞっとするようなもう一つの話である。これは、殺害された皇帝一家の遺体に起きたことに関する憶測だ。数十年の間、彼らの遺体は発見されなかった。このことで、さまざまな噂やおぞましい伝説が数多く生まれた。白系調査委員会の委員長ミハイル・ディトリフは1922年に、皇帝一家の人々は射殺された後に首を落とされたという憶測があると主張している。彼らの頭部は大きな壺に入れられてモスクワのソヴィエト指導部のもとへと運ばれたのだという。後の調査と科学捜査の知見により、この仮説が誤っていることが証明された。

「皇帝一家の」頭蓋骨と推定されるもの。1993年

 しかしながら教会側は未だに、1991年に発見された遺体をロマノフ家の人々のものと認めていない。さらに、ロシアの調査委員会は儀式的殺害説について検討すると宣言した。したがって、殺害事件と殺害状況について結論を出すのは時期尚早である。

3. 指示を出したのは誰か?

 殺害事件から100年近く経つが、皇帝一家の射殺を命じたのが誰なのかは未だ分かっていない。レーニンの決断だったのか、あるいは現地エカテリンブルグの急進的なボリシェヴィキが指導したことだったのか。

レフ・トロツキー

 前者が正しいと見る研究者らがふつう言及するのは、1930年代半ばのレフ・トロツキーの日記だ。彼は誕生して間もないソヴィエト共和国においてレーニンに次いで第二の地位にあった。彼はレーニンの同僚のヤコフ・スヴェルドロフに対し、ツァーリの身に何が起きたのかを尋ねたということを記している。スヴェルドロフは、皇帝とその家族は銃殺されたが、それはクレムリンの決定だったと話したとされる。トロツキーは内戦中に極めて残酷な手段を取ったことで知られるが、この行為の冷酷さに驚いたということを日記の中でほのめかしている。しかしながら現存する政府閣議の議事録によれば、彼は共産党高官がツァーリの殺害について知らされた7月18日(殺害事件の翌日)の会合に出席している。よって、彼はツァーリの身に何が起きたのかを知っていたはずであり、したがって彼の証言には疑わしさが残る。

 ボリシェヴィキがもともとニコライ2世の裁判を開くことを計画していたという証拠もあり、したがって彼らは法に則らない殺害には関心がなかった。しかし、1918年7月中頃には状況が変わっており、エカテリンブルクがボリシェヴィキの反対勢力の手に落ちようとしていたため、退位させられたツァーリが反ボリシェヴィキ勢力集結の中心となることをレーニンが恐れていた可能性はある。しかし、歴史家のゲンリフ・ヨッフェが主張するように、反ボリシェヴィキ勢力は王政主義者ではなかった。「(彼らが戦ったのは)民主主義の旗の下であり、王政復古のためではなかった」と。「ニコライ自身と王朝は革命以前にはかなり威信が揺らいでいた。誰も本気で彼らの復帰について考えなかっただろう」とヨッフェは主張する。このことから、ニコライと彼の家族の殺害を承認した命令は、現地の共産党員らによって出されたという可能性がより高いと結論づけられる。

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