モスクワの赤の広場に眠る外国人

NASA/Bill Ingalls
 クレムリンの壁のそばには約200人が眠る墓地があり、外国の政治家も埋葬されている。彼らはどのような人物なのか、なぜここに埋葬されたのだろうか。

 1924年に死去したレーニンの霊廟が現在も赤の広場にあることはよく知られている。しかしレーニン廟はクレムリンの壁墓地の一部(中心)にすぎない。敬意を込めて作られた独特の墓地がここに登場したのは1917年の革命後のことだ。

 1985年まで特に重要な党の活動家や革命家がここに埋葬され続けた。レーニン廟の両側に胸像付きの墓の列がある。さらに集団墓地には革命のために命を落とした兵士たちも眠る。

 モスクワに火葬場ができた1920年代末から、ソ連にとって重要な人物の遺骨をクレムリンの壁の中に埋葬するようになった。作家マクシム・ゴーリキー、軍司令官ゲオルギー・ジューコフ、宇宙飛行士ユーリー・ガガーリン、ロケット開発者セルゲイ・コロリョフらの遺骨が壁の中に収められている。 

 この墓地にはかなり早い時期に最初の外国人が現れた。例えばクレムリンの壁のそばの集団墓地には、1921年にモスクワ近郊で死去したさまざまな国籍の5人の共産主義者が埋葬された。ドイツ人のオスカー・ゲルブリヒとオットー・シュトルパト、ブルガリア人のイワン・コンスタンチノフ、オーストラリア人のジョン・フリーマン、英国人ウィリアム・ジョン・ヒューレット――彼らは皆鉱山労働者の権利のために戦い、労働組合の赤色インターナショナル会議に参加するためロシアに来ていた。トゥーラからモスクワに向かう道中、彼らは鉱山労働者と会い、最新のアエロワゴンに試乗したが、そこで大事故が起こったのだった。 

 クレムリンの壁に埋葬されている200人近い人物の中にも少なからず外国人がいる。主に自国で労働者運動を指導した人々だ。

 

1. ハンガリー人、アンタル・ホラーク(?-1918) 

 第一次世界大戦の後、ロシアに数万人のハンガリー人捕虜がやって来たが、その中には農民や労働者など、階級の低い人々もいた。彼らはボリシェヴィキに合流し、政権奪取と社会正義実現を求める闘争に加わることを決めた。アンタル・ホラークは赤軍に参加し、ロシア内戦で左派エス・エルの蜂起をボリシェヴィキが鎮圧した際に戦死した。クレムリンの壁のそばの集合墓地に埋葬された。

 

2. ノルウェー人、アウグスタ・オーセン(1878-1920)

 このノルウェー人共産主義者はソビエト・ロシアとの連帯運動の組織者の一人だった。1920年、彼女はソビエト国家に招かれ、モスクワでコミンテルン会議と第1回国際共産主義女性会議に参加した。彼女はモスクワで行われた航空祭で事故死した。事故に遭った飛行機の翼が直撃したのだ。彼女は1920年に死去した他の共産主義者とともに集団墓地に埋葬された。

 

3. 米国人、ジョン・リード(1887-1920)

 この米国人ジャーナリストはボリシェヴィキお気に入りの外国人だった。リードはウラジーミル・レーニンやレフ・トロツキーと個人的に面識があり、1917年の革命を目撃し、自著『世界を揺るがした10日間』で革命を讃えた。その後彼は米国共産党の創設者の一人にもなった。1919年、彼は再びソビエト・ロシアにやって来てコミンテルンで働き、新たな著書に必要な情報を集めるため国内を回った。リードは1920年にモスクワでチフスのため死去し、クレムリンの壁のそばの集団墓地に埋葬された。

 

4. 米国人、チャールズ・エミル・ラッセンバーグ(1882-1927) 

 もともと家具職人で荷役労働者の息子だった米国人ラッセンバーグは、できて間もない米国共産党の書記長となった。彼は海の向こうで起こった革命に感嘆し、「ソビエト・ロシアから手を引け」という労働者デモを起こした。ラッセンバーグは祖国で死去したが、ボリシェヴィキの要請で遺骨はロシアにもたらされ、クレムリンの壁に埋葬された。

 

5. 英国人、アーサー・マクマナス(1889-1927)

 このスコットランド人金属工は1910年代から労働者ストライキに参加し、社会労働党に入って新組織工場長会議の指導部にも名を連ねていた。彼はロシアで起こった1917年の革命に大変な感銘を受け、英国に全左派政治運動を束ねる共産党を作る運動を始めた。共産党が創設されると、マクマナスはコミンテルン会議に参加するためソ連を訪れるようになった。彼は騒乱罪で数ヶ月間投獄され、その後1927年に死去した。遺骨はソ連に移され、クレムリンの壁に埋葬された。

 

6. 米国人、ウィリアム・ダドリー・ヘイウッド(1869-1928) 

 米国人鉱山労働者ヘイウッドは米国鉱山労働者連盟に入っており、現地の左派政党や労働者組織の活発なメンバーであり、ストライキを主導していた。多くの共産主義者と同様、彼は米国の第一次世界大戦参戦に反対していた。彼と仲間の活動家はスパイ容疑と軍からの脱走を扇動した容疑で逮捕された。彼は禁固20年の判決を受けたが、控訴を条件に間もなく釈放された。この時彼はソビエト・ロシアに亡命した。獄中で1917年の革命に感銘を受けていたからだ。ソ連では革命労働者組織で大いに働き、米国での労働者活動について自伝や本を書いてロシア語で出版した。モスクワで1928年に死去した。

 

7. ハンガリー人、ランドレル・イェネー(1875年-1928年) 

 このハンガリー人共産主義者は若い頃に何度か労働者ストライキを主導し、その後、数ヶ月だけ存在したハンガリー・ソビエト共和国の指導者の一人となり、ハンガリー赤軍を率いた。共和国の崩壊後、彼は亡命してコミンテルンに参加したが、1928年にカンヌで病気のため死去した。遺骨はクレムリンの壁に収められた。もう一人のハンガリー人でランドレルの同志でもあったイェネー・ハンブルゲルも1936年にクレムリンの壁に埋葬されたが、遺骨は第二次世界大戦後に祖国に返還された。

 

8. ドイツ人、クララ・ツェトキン(1857年-1933年) 

 女性の権利を求めて闘ったドイツ人女性共産主義者の名は、ソ連人なら皆子供の頃から知っていた。今日でもロシアの多くの街路が彼女の名を冠している。ロシアの重要な祝日の一つである3月8日の国際女性デーは、ツェトキンらが提唱して始まったものだ。ツェトキンはヒトラーが政権を取るとドイツから追放された。彼女はモスクワ近郊で1933年に死去した。

 

9. 日本人、片山潜(1859年-1933年)

 この日本人共産主義者は米国留学中に社会主義に傾倒した。祖国に戻ると労働組合や労働者運動、左派政党を組織するようになった。1904年、ロシアが日本と戦争をしている間に、彼はロシア人社会主義者ゲオルギー・プレハーノフと握手をしていた。彼らはともに労働者インターナショナル会議の議長に選ばれた。労働者騒乱活動に対する弾圧が強まる中、彼は日本を離れて1918年にソビエト・ロシアに渡り、コミンテルンで働いた。モスクワで1933年に死去した。

 

10. ドイツ人、フリッツ・ヘッケルト(1884年-1936年)

 労働者運動の著名な活動家ヘッケルトは、ドイツ共産党の指導部のメンバーだった。彼はレーニンとも交流があり、ロシア革命の成功に感銘を受けていた。ヘッケルトはツェトキンと同じく、ナチスが政権を取ったことでドイツからの逃亡を余儀なくされた。彼はモスクワで暮らし、その著作はソ連でも出版された。

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