モスクワの日本ゆかりの場所TOP10

Legion Media; Public Domain
 モスクワの日本ゆかりの場所は、ユニクロや日本料理レストランだけではない。露日関係は長い歴史を有し、その記憶は首都のさまざまな場所に刻まれている。

 クレムリンの壁際に有名な日本人が葬られているが、それは誰だろう?1917年のモスクワでは、日本の貝細工のボタンを購入できたが、それはどこで?東京大学を卒業した最初のヨーロッパ人と、モスクワの高級食品店「エリセーエフ」との間にはどんなつながりがあるか?

 露日関係史を語るうえで欠かせない、モスクワのランドマーク10か所を探訪してみよう。 

1. 日本の共産主義指導者である片山潜の、クレムリンの壁際の墓

アドレス:赤の広場

 モスクワを訪れる観光客は皆、赤の広場を目指す。ここには、レーニン廟の背後に一群の墓があり、ソ連共産党幹部およびこの国の指導者、さらに外国人の著名な共産主義者の遺骨が埋葬されている。

 ここに日本の共産主義運動の草分けの一人、片山潜の墓もあるのだが、そのことは誰もが知っているわけではない。片山は、1921年に、長女やす(安子)とともにソビエト・ロシアに渡り、レーニン自身の誘いで、コミンテルンで働いた。当時、日ソ間には国交はなく、ようやく1925年に開かれている。

 片山やすは、父親の遺志を継ぎ、後に「日ソ協会」の副総裁となる。 

2. グム百貨店内の「竹内真珠宝飾」

アドレス:赤の広場3番地「グム」

 日露戦争後、両国関係は徐々に好転し、第一次世界大戦中の1916年には、第四次日露協約が結ばれた。第一次大戦における日露関係強化や極東における両国の権益を相互に確認する内容で、両国関係改善のマイルストーンとなった。

 こうして、多くの企業が帝都ペトログラード(サンクトペテルブルクから改称)に支店を開設。モスクワに支店を開いた企業もあった。武器弾薬その他の装備の供給に関わるものはすべて帝都に集中した一方、繊維産業に関連するものはみなモスクワにあった。

「露日協会会報」の「竹内真珠宝飾」の広告、1917年

 1917年、日本の「竹内真珠宝飾」の広告が「露日協会会報」に載った。現在、グム百貨店となっているショッピングモールの3階に開店し、広告によると、貝細工のボタン、絹製品、スカーフ、樟脳、寒天、歯ブラシ、紙ナプキン、帽子、その他多数の商品を販売していた。

3. エリセーエフ商店

アドレス:トヴェルスカヤ通り14番地

 20世紀初め、モスクワに住んでいた日本人は、コーヒー、キャビア、タバコ、「シベリア・チーズ」(カッテージチーズ〈トヴォローク〉を日本人はこう呼んでいた)を買うために、エリセーエフ商店に出かけた。

 店主の息子、セルゲイ・エリセーエフは見事に日本語を操り、東京大学を卒業した最初のヨーロッパ人となった。

 ロシア革命後の1920年、セルゲイ・エリセーエフはロシアからパリに亡命し、ソルボンヌ大学で日本語、日本文学などを教えた。1932年にはアメリカに招かれ、ハーバード大学教授となる。彼は、米国における日本学の開祖とされている。

4. ゴーリキー文学博物館(旧リャブシンスキー邸)

アドレス:マーラヤ・ニキーツカヤ通り6/2

 現在、このアールヌーボー様式の美麗な邸宅には、作家マクシム・ゴーリキーの邸宅博物館がある。

 この建物は元来、銀行家ステパン・リャブシンスキーのために、建築家フョードル・シェーフテリが1903年に建てたものだ。シェーフテリの代表作は、この邸宅のほか、モスクワ芸術座、モスクワのヤロスラーヴリ駅など。

 リャブシンスキーは、露日協会モスクワ支部のメンバーとして活発に活動していた。モスクワ支部は、1915年末の開設。モスクワの実業家たちは日本と貿易したがっていたのだが、当時、日本との取引では外貨決済が難しかったため、露日銀行が必要となった。このプロジェクトの発案者がステパン・リャブシンスキーだったわけだ。

 銀行は1917年初めに開業する予定だったが、それは実現されずに終わった。十月革命がすべてをご破算にしたためだ。

 1917年、リャブシンスキー一家は慌ただしくイタリアに亡命し、彼らの邸宅は国有化された。 1931年に作家マクシム・ゴーリキーとその家族がここに引っ越してきたが、これで日本とのつながりが切れたわけではない。

 作家はこの家に、30年間にわたり収集した根付のコレクションを、日本の磁器、彫刻、その他の日本グッズとともにずらりと並べていた。それは今日も見ることができる。

5. 在モスクワ・日本領事館

平田知夫領事の肖像画

アドレス:ボリシャヤ・モルチャノフカ通り15番地

 サンクトペテルブルクがまだ首都だった1912年に、日本領事館がモスクワに開設された。シベリア横断鉄道の列車がモスクワを通りため、同市を経由する旅行者の数が急激に増え、領事館を開く必要が出てきたからだ。

 初代モスクワ領事は、経験豊かな外交官でロシア専門家でもある川上俊彦(かわかみ としつね)だ。彼は、日露戦争では、旅順要塞陥落時に水師営の会見で通訳を務めた人物である。

 川上の後任には、ウィーンからバルカン諸国の専門家で、33歳の平田知夫(ひらた ともお)が赴任。

 領事館と領事公邸、さらに3人の領事館員とその家族の住まいを兼ねた建物は、 ボリシャヤ・モルチャノフカ通り15番地にあった。

6. セルゲーエワ=コンシナ邸

アドレス:カラシヌイ横丁12番地

 1956年に日ソ間の国交が回復すると、日本大使館と日本大使公邸はこの建物に置かれた。

 ここは19世紀末に、モスクワ音楽院で教鞭をとったニコライ・ズヴェレフがアパートを借りていたところだ。彼の弟子には、ラフマニノフ、スクリャービンなど名だたるピアニスト、作曲家がいる。

 2007年に日本大使館は、グロホリスキー横丁の新しい広壮な建物に移転したが、大使公邸は元の場所にある。

7. ロシア国立東洋美術館

アドレス:ニキーツキー・ブリヴァール 12А

 国立東洋美術館は1918年に創設された。ここは、1896年にニコライ2世の戴冠式に際し日本代表団から贈られたプレゼントも所蔵している。贈り物の中には、象牙の板で制作された巨大な鷲もあった。その翼幅は1.5メートルを超える。

 1896年5月24日、ニコライ2世は日記に次のように記している。

 「私たちは急いで宝物殿の『武器庫』を見た。下の階のホールには、日本の贈り物があった。伏見宮が、天皇と私の薩摩の友人からの見事な贈り物を持ってきてくれた」

 これほど大勢の政府代表団(20人以上)が日本からロシア帝国にやって来たのは初めてだった。天皇の名代は伏見宮で、代表団の団長は山縣有朋元帥。

8. アルセニー・モロゾフ邸(政府迎賓館)

アドレス:ヴォズドヴィージェンカ通り16番地

 1928年から1941年まで、この邸宅は日本大使公邸だった。元来は、ムーア様式で建てられた、大富豪アルセニー・モロゾフの邸宅であり、日本の6人の大使がここに住んだ。

 1959年から1990年代末までは、ソ連対外友好・文化協会がここに置かれていた。日ソ協会のイベントもここで開催された(日本の共産主義運動の草分けの一人、片山潜の長女やすが、長年、同協会の副総裁を務めた)。

 現在、この邸宅はロシア連邦の政府迎賓館となっている。

9. ウクライナホテル

アドレス:クトゥーゾフ通り2/1

 ウクライナホテル2階の図書室に、記念プレートがあり、次のように刻まれている。

 「杉原千畝(1900~1986) 元在リトアニア日本領事館領事代理で、諸国民の中の正義の人である。第二次世界大戦中に数千人のユダヤ人難民の命を救った。彼は、1963年から1971年までこの建物で働いた」

 杉原の外交官としての経歴は、1919年にハルビンで始まった。1939年、彼は、駐カウナス領事代理となり、約6千人のユダヤ人に、日本へのビザ(通過査証)を発給し、それによって彼らの命を救った。

 戦後、杉原は小さな商社に就職し、モスクワに駐在した。1956年に日ソ間の国交回復がなされると、ウクライナホテルには、住友、三井、丸紅、ニチメンなど、日本のいくつかの商社の駐在員事務所が開設。杉原もホテルに開かれた商社の一つで働いていた。

 

10. 宮川船夫の墓

ノーヴォエ・ドンスコエ墓地

 日本の外交官、宮川船夫はロシア語に堪能で、1941年の日ソ中立条約締結に関する交渉で通訳を務めている。彼はサンクトペテルブルクで8年間生活し、ウラジオストク、モスクワ、ハルビンなどで働いた。

 1945年、ハルビン総領事だった宮川は、ハルビンで逮捕され、1950年にモスクワのレフォルトヴォ監獄で、間もなく釈放を控えながら、心臓発作で死亡したという。

 宮川の逮捕、モスクワ移送をめぐる状況については依然、未知の部分が大きい。

 モスクワのノーヴォエ・ドンスコエ墓地にある彼の墓を、日本の公式の代表団は参拝している。 

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 露日関係史の専門家で通訳者であるスヴェトラーナ・ミハイロワ氏に対し、探訪ルート作成につき感謝します。

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