ロシアの議会の歴史:古代のヴェーチェから現代までを振り返る

Mikhail Kuleshov/Sputnik
 ドゥーマ(下院)が開設されるずっと前に、ロシアの人々は集団決定の方法をもっていた。さまざまな組織に集まり、採決あるいは総意で決めていた。議会設置のはるか以前のことだ。

 古代ロシアの「民主主義」の決定的な特徴は次の点にあった。農民と貧しい町民のニーズが、主に彼らの家主、裕福な町民、そして軍司令官によって「代表」されていたことだ。普通選挙がロシアに導入されたのは、ようやく20世紀初めだ。 

ヴェーチェ

「プスコフのヴェーチェ」

 リューリク朝の公たちがロシアの地で権力を握る前は、ノヴゴロド、プスコフ、キエフを含む多くの大都市は、ヴェーチェによって統治されていた。これは、すべての「しっかりした」市民で構成される、一種の民衆議会だ。

 しかしヴェーチェは、厳密な意味での議会ではなかった。選挙がまったく行われなかったからだ。最も影響力があり富裕で一目置かれている市民だけが、市の広場に集まって物事を決めた。たとえば、ノヴゴロドのヴェーチェは約300人からなっていた。
 11~13世紀、ロシアの地は、封建主義的に「断片化」し、各地にリューリクの子孫である公たちが群雄割拠するようになっていく。すると、各都市のヴェーチェは、そこに拠点を置いていた公とともに行動するようになる。ソ連の有名な歴史家ミハイル・ティホミロフは、公とヴェーチェの「二頭政治」が存在していたと述べる。公は司法権と立法権を握り、ヴェーチェは住民の意見を表した。

 ヴェーチェの主な原則は、全会一致ということだ。公または影響力のある大貴族によって、ヴェーチェを前にして下された決定は、ヴェーチェのすべての成員によって全会一致で承認されなければならなかった。そのため、事実上すべての人がその決定に納得するまで、ヴェーチェの集会が延々と数週間も続くことがあった。

 しかし、ノヴゴロドやプスコフのような強力なヴェーチェになると、公が都市を支配することを禁じて、自ら土地を分配し、高位聖職者を選び、犯罪者に対して死刑を宣告することさえあった。

 ヴェーチェは、モスクワの覇権の下でロシアが中央集権化される間に消えていった。モンゴル・タタールに対し団結して戦うために、ロシア軍を率いたモスクワ大公が決定を下した。

 ノヴゴロド、プスコフ、ヴャートカ(現在のキーロフ)のヴェーチェが最も長く存続したが、15~16世紀にモスクワ大公国によって征服されると、ヴェーチェも消えた。

ゼムスキー・ソボル(全国会議)

「17世紀のゼムスキー・ソボル」

 ゼムスキー・ソボル(全国会議)は、教会の会議と区別するためにこう名付けられた。しかし、ゼムスキー・ソボルは決して定期的に開かれたわけではない。通常は、国家の重要事項を議論するためにツァーリが招集した。

 最初のゼムスキー・ソボルは、1549年にイワン4世(雷帝)が招集し、新法典「スデブニク」とその後の改革について話し合った。ロシア・ツァーリ国の聖俗すべての代表が出席した。

 ゼムスキー・ソボルは、①聖職者会議(全国から高位聖職者が集まり、府主教、後に総主教が率いた)、②貴族会議(すなわち、ロシア・ツァーリ国の政府)、③全国の商人、町人の代表からなっていた。会議は不定期に招集され、戦争の開始や税金の導入などの緊急議題について話した。

 ゼムスキー・ソボルは、1549年~1680年代に開催され、会期の正確な数は不明だが、約60回あって、そのほとんどが17世紀だった。

 ゼムスキー・ソボルは、ピョートル大帝(1世)が大改革を始めたときに終わる。彼は、ロシアに絶対君主制を導入したので、国民の代表機関の活動する余地はなかった。

ロシア帝国:2世紀にわたり議会なし

農村共同体「ミール」の寄合

 ピョートル大帝は、地主貴族を全臣民の意見の代表者とみなしていた。当然のことながら、地主の安寧と福祉は、農民のそれに基づいていた。農民は、地主の土地で働き、食糧を供給し、住宅を建設し、そして兵士として軍隊に仕えていたのだから。
 立法者である皇帝の意向としては、貴族は、彼らが所有する農民(農奴)の安寧を保障すべきだった。ところが実際には、すべての貴族が農民のことを配慮したわけではなく、単なる消耗品とみなす者もいた。そうした貴族の大半は零落し、土地と農民を売らなければならなかったが。

 しかし農民自身は、農村共同体「ミール」の民主的な寄合を維持し、そこで物事が合議で決められた。ミールは、軍に徴兵される新兵を選び、メンバー全体に税負担を分散させ、ときには、犯罪を隠蔽したり、ミール内の誰かを物質的、金銭的に助けたりすることもあった。

 1861年の「農奴解放」の後、ミールは自治組織として公式の地位を与えられた。20世紀初めの時点で、ロシアには10万超のミールがあった。

帝政時代の議会「ドゥーマ」

新ドゥーマの開幕式、1906年4月27日

 1905年の第一次革命は、ロシア帝国のさまざまな地域で起きた、一連の大規模な反乱、ストライキ、暴動だった。国民の主な要求の一つは、国民を代表する国家機関を導入することで皇帝の専制を制限することだった。

 1905年8月6日、国会「ドゥーマ」(ロシア語で「思考」を意味する)が、立法に関する諮問機関として設立された。しかし、これでは暴動は止まらなかった。

 1905年10月17日、今度はドゥーマに立法権が与えられた。つまり、ドゥーマの承認なしに新法を導入することはできなくなった。とはいえ、その新法は、皇帝の諮問機関「国家評議会」、さらには皇帝自身によって署名されなければならなかった。

 1905年12月11日の新しい選挙法によれば、新設ドゥーマの議員の49%は、農民によって選ばれることになっていた。しかし、選挙権は財産を有する者にしか与えられなかったし(たとえば、家屋を所有する農民だけが投票を許された)、女性は投票を許可されなかった。しかも、これは直接選挙ではなかった。有権者は選挙人を選び、選挙人が議員を選んだ。
 新ドゥーマは、1906年4月27日に開かれた。しかし、ドゥーマはすぐさま以下のような要求を出し始めた――死刑の禁止、政治犯の恩赦、農民への土地付与の拡大、内閣がドゥーマに責任を負うこと(責任内閣制)などだ。

 ドゥーマの要求は、すべて政府によって拒否された。そして結局、ドゥーマは、1906年7月9日に皇帝ニコライ2世によって解散させられた。

 第2回ドゥーマは、1907年2月20日から6月3日まで存続したが、やはりニコライ2世の命令で解散。理由は、ドゥーマで左翼政党が多数の議席を占めたこと。首相ピョートル・ストルイピンは、彼らの急進的な要求は話にならぬと考え、皇帝にドゥーマを解散し、あわせて選挙法も改正するよう説得した。

 第3回ドゥーマは、主に右派政党で構成されていたから、政府にとっては好都合だった。しかしこのドゥーマは、社会の要求や願望を表すものではなかった。

 第3回ドゥーマは、4回のドゥーマの中で唯一、選挙法で規定された5年間の任期をまっとうできた。

 第4回ドゥーマは、1912年11月に開かれ、1917年2月25日まで続いた。ニコライ2世が正式に解散するまでだ。しかしドゥーマは、皇帝の命令に従わず、非公式な会合を続け、それが結局、臨時政府を形成し、1917年の2月革命で決定的な役割を果たすことになる。1917年10月6日、臨時政府はドゥーマを解散する。

ソ連時代:ソビエト大会と最高会議

十月革命の50周年を記念するために集合した最高会議

 1918年から1936年まで、ソビエト大会と呼ばれる、議会のような機構がソ連に存在していた。ソビエト(評議会、会議を意味するロシア語)は、ソ連の統治システムの基礎をなしており、そこからソビエト連邦という国名も生まれた。ソビエトは、国民の願望と要求を表すために村、工場、町などで選出された人々のグループだ。

 工場と村のソビエトは、代表を町ソビエトに送り、次に町ソビエトは代表を地方ソビエトに送り、町と地方のソビエトは、地域ソビエトに代表を送り、地域ソビエトは、代表を連邦構成共和国のソビエトに送った。連邦構成共和国のソビエトは、1918年から1936年までは、ソビエト連邦のソビエト大会に代表を送り、1938年からは最高会議に代表を送った。最高会議は1989年まで存在していた。

 最高会議は、連邦会議と民族会議の二院制で、両院は、同等の立法権を有していた。両院は、個別に、また合同で会議を行うことができた。1989~1991年に、最高会議は、ソビエト連邦人民代議員大会に代わった。

 最高会議では、代表が演説し、投票し、現在の問題について話し合った。しかし、それはすべて「上演」であり、実質的な議論は行われず、すべての決定は全会一致でなされた。だから、最高会議は「ポチョムキン会議」と呼ばれることもある(*「ポチョムキン村」にひっかけている。18世紀のロシア帝国の軍人・政治家グリゴリー・ポチョムキンが、女帝エカテリーナ2世の行幸のために作ったという「偽の村」に由来する表現だ)。実際には、国家の重要な決定はすべて、政治局(ソ連共産党中央委員会政治局)、つまり共産党の幹部によって、書記長(ソビエト連邦共産党書記長)の下で行われた。書記長が国の実質的な指導者だった。

現代:ロシア連邦議会

国家院(下院、ドゥーマ)が置かれている国家院議事堂


 現在、ロシアの国会は、ロシア連邦議会と呼ばれている。連邦院(上院)と国家院(下院、ドゥーマ)からなる二院制議会だ。

 連邦院(上院)は、ロシア連邦の各構成主体(地方自治体)からの、2種類の代表で構成されている。一つは立法府(地方議会)の代表で、もう一つは行政機関(地方政府)のそれだ。

 連邦院の議員は、「セナート」と呼ばれる(古代ローマの「元老院」が語源)。さらに、30人の議員が大統領によって任命される。連邦院は常設で、国家院(下院、ドゥーマ)とは異なり、大統領が解散することはできない。その会議は必要に応じて、少なくとも月に2回開かれる。

国家院(下院、ドゥーマ)の中にて

 国家院は、1993年12月12日に初めて選出された。ちなみに同日、ロシア連邦憲法が国民投票で承認されている。 そのロシア憲法によると、国家院の議員数は450人。国家院の選挙は5年ごとに行われる。連邦院とは異なり、国家院の議員はさまざまな政党に属している。

 国家院には種々の権能があり、なかでも重要なのは、法案の審議と採択または否決、大統領が任命した首相の承認だ。さらに、政府の活動の年次報告を聞き、恩赦を発表し、大統領の弾劾決議を行う(議員の3分の2が必要)。21歳以上の被選挙権をもつロシア国民は、国家院議員に選出される可能性がある。

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