なぜロシアにはこんなに非ロシア人のツァーリが多いのか?

ロシアの伝統衣装を着た皇帝夫妻、ニコライ2世とアレクサンドラ・フョードロヴ、1913年

ロシアの伝統衣装を着た皇帝夫妻、ニコライ2世とアレクサンドラ・フョードロヴ、1913年

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 ロシアの歴史は、公式には、北方から外国の公たちがやって来たことから始まる。そしてロシア帝国最後の皇帝は、その血筋を見れば、実質的にはドイツ人だった。この「外国人による支配」は、いつどのように生じ、定着したのか?

 ヴァリャーグ(ヴァイキング)の招請をめぐる正確な詳細には、まだ疑問と不明瞭さが残っているが、歴史家は、ヴァリャーグの公、リューリクなる人物が何者であったとしても、ロシア人ではなかったという点では意見が一致している。

リューリクたちのロシアへの同化

リューリク

 古代ロシアの最初の公は、北欧出身だったと推測して間違いあるまい。彼らは、スカンジナビア風の名前さえ――イーゴリ、オレーグ、オリガなどを――もっていた。しかし、10世紀に入るころには、彼らはロシア人に同化し、溶け込んでいた。

 ロシアにキリスト教(正教)を導入したキエフ大公国のウラジーミル1世(聖公)は、リューリクの曾孫に当たる。彼は、外国の王朝との関係を確立、強化しようとして、娘の何人かを外国の王子や王に嫁がせた。ただし、歴史的な資料が不十分なため、その正確な数は分からない。

 たとえば、ウラジーミル1世の娘プレミスラワ(1015年死亡)は、ハンガリーのラディスラス公(997~1030)と結婚。また、マリア・ドブロネガ(1012~1087)は、ピャスト家のポーランド公、カジミェシュ1世(1016~1058)と結婚した。なお、ウラジーミルの娘やその子孫は、誰もロシアに戻らなかった。

 リューリク朝は17世紀初頭までロシアを支配し続ける。つまり、「大動乱」(スムータ)の後で、ロマノフ王朝がロシアの王位に就くまでだ。

外国人の「血」を王朝に導入したピョートル大帝

 ピョートル大帝の父帝、アレクセイ・ミハイロヴィチ(1629~1676)は、王朝の婚姻に関する慣習については非常に厳格だった。彼は、娘たちが外国の王子と結婚することを認めなかった。おそらく彼は、外国の王朝にロシアの王位への権利を持たせたくなかったのだろう。

 アレクセイ・ミハイロヴィチとは違って、息子のピョートル大帝(1世)は、娘と姪をヨーロッパの王朝に対するビッグ・ゲームの駒として盛んに駆使した。 

 たとえばピョートルは、姪のアンナ・ヨアーノヴナ(1693~1740、異母兄イワン5世の娘)を、クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルム(1692~1711)と結婚させるが、彼は不幸にして結婚後まもなく亡くなった。豪勢な祝賀会での痛飲のせいだと考えられている。二人の間に子供はできなかった。

クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルム(左)とアンナ・ヨアーノヴナ(右)

 ピョートルとその二番目の妻エカテリーナ(1684~1727)の間に生まれた娘アンナ(1708~1728)は(彼女は両親が正式に結婚する前に生まれていた)、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒ(1700~1739)に嫁いだ。

 アンナは嫁ぎ先のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の首府キールで生活する。彼女は夭折したが、死の3か月前に、カール・ペーター・ウルリヒ(1728~1762)を産んでいた。これが後のピョートル3世だ。

実質的にドイツ人だったロマノフ家 

 エリザヴェータ・ペトローヴナ(1709~1762)は、ピョートル大帝とエカテリーナの次女で、ロシア人の血が半分以上流れていた最後のロシア皇帝だった(母エカテリーナは、バルト沿岸のリヴォニアの出身だった)。その後を継いだのがピョートル3世だ。

ピョートル3世

 しかしピョートル3世は、妻エカテリーナ(1729~1796)にクーデターで廃位され、殺害された。こうして即位したエカテリーナ2世は、アンハルト=ツェルプスト侯の娘、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケとして生まれているから、ロシア人の血は一滴も流れていない。

 ピョートル3世とエカテリーナ2世の一人息子がパーヴェル1世(1754~1801)だ。彼は二度結婚している。最初の妻は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯の娘、ヴィルヘルミーネ・ルイーザ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(1755~1776)で、第1子を死産し、自分も若くして亡くなった。 

 二人目の妻は、ヴュルテンベルク公の娘、ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク(1759~1828)。ロシア正教に改宗し、マリア・フョードロヴナと名乗った。

マリア・フョードロヴナ(左)とパーヴェル1世(右)

 こうした婚姻の結果として、パーヴェル1世とマリア皇后の子供は皆――その後ロシア皇帝となったアレクサンドル(1777~1825)とニコライ(1796~1855)も含めて――生まれながらにしてほぼ完全にドイツ人だった。

 そして、彼らの子孫もすべてそうだった。なぜなら、19世紀のロシア皇帝は、驚くべきことだが、ロシアの王女とは結婚しなかったためだ。それというのも、ロシアには、家格でロマノフ家に匹敵するものは皆無だったから。

 19世紀のロマノフ家はロシアで確立された帝位継承の規則を厳守していた。その規則によれば、ロシアの帝位継承者は、家格で同等か匹敵する女性とのみ結婚しなければならなかった。ロシアには、ロマノフ家に比肩する血統は他になかった。

 だから、ロマノフ家の帝位継承者は、欧州の王女と結婚する以外に選択肢がなかった。それも、できればドイツ人と結婚した。これは、ロマノフ家とドイツの領邦国家との長年にわたる関係のためで、そうした絆は、ピョートル大帝の娘アンナがホルシュタイン=ゴットルプ公に嫁いだことに始まっていた。

 結局のところ、こうした婚姻関係の経緯により、ロマノフ家とウィンザー家(ザクセン=コーブルク=ゴータ家の後進)が密接に結びつくことになった。

 19世紀末になると、ロシア皇帝はロシア語をほとんど知らなかった。アレクサンドル3世(1845~1894)は、ドイツ語なまりの強いロシア語を話したが、最後のロシア皇帝となった息子のニコライ2世(1868~1918)は、妻とさえ英語で話した。

ニコライ2世

 その妻とは、アレクサンドラ・フョードロヴナ(1872~1918)。彼女は、ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間に、四女ヴィクトリア・アリックスとして生まれている。

 1913年に、ロマノフ王朝300年を祝うべく、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后は、すべての皇族とともに、17世紀の様式に基づく伝統的なロシア風衣装をまとった。しかし、これはいわばロシア人を真似てコスプレしたにすぎなかった。

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