ツァーリのお葬式:ピョートル大帝前後でどう変わったか?

エルミタージュ美術館
 ロシア帝国皇帝の葬式は、初代皇帝ピョートル大帝(1世)が定めた。しかし、彼自身の葬式は、中世ロシアにおけるツァーリの葬儀の伝統から新しい帝国式への移行を示すものだった。では、ピョートルの葬儀は、モスクワ公国、それに続くロシア・ツァーリ国の君主たちとどう違ったか?

 イワン雷帝(4世)の父、モスクワ大公ワシリー3世の葬式では、号泣と叫喚のため、ダニイル府主教と、公国の大貴族の弔辞はかき消されて聞こえなかった。しかし、誰も泣き声を黙らせようとはしなかった。

 当時は、会葬者が故人のために大声で泣けばなくほど良いと信じられていた。庶民も貴族も、親族の葬式のためにプロの「泣き屋」を雇う習わしだった。 

 モスクワ公国、およびロシア・ツァーリ国では、要するに、ツァーリの葬式は、一般の葬式のなかで最も荘厳なものにすぎなかった。しかしこの伝統は、ロシア・ツァーリ国最後のツァーリであり、ロシア帝国初代皇帝であったピョートル1世によって変えられた。まずは、彼以前の伝統を見てみよう。

ピョートル大帝以前のツァーリたちはいかに葬られたか?

 大公(またはツァーリ)が亡くなった後まず第一になすべきは、跡継ぎの決定だ。だから、ワシリー3世が死ぬと、大貴族たちはまずツァーリの幼い息子、イワン・ワシリエヴィチとその母エレーナに対し、十字架に接吻して(誓約のしるしである)、忠誠を誓った後で、葬式に出た。

 17世紀およびそれ以前には、死去の翌日にツァーリを(他のすべての死者と同様に)葬る規則であり、ゆえにすべてを迅速に執り行わなければならなかった。ツァーリの亡骸は、司祭たちが洗い清めることになっていた。その後で司祭は、ツァーリの近親者に告別を許した。ツァーリを葬るために石棺があつらえられ、歴代ツァーリの霊廟である、クレムリンのアルハンゲリ(大天使)大聖堂に、そのための場所が用意された。

アルハンゲリ(大天使)大聖堂

 イワン雷帝の治世あたりから、葬儀前に棺の前で独自の「通夜」を行う伝統が生まれた。 

「彼の棺は、昼夜守られ、蝋燭が灯されていた。司祭や修道士が朗唱し、乳香とミルラの煙を棺に焚き込め、聖水をふりかけた」。ピョートル・ぺトレイは、貴顕の葬儀をこう描いている。言うまでもなく、ツァーリははるかに荘厳に葬られた。

 今や亡きツァーリは、喪服や礼装ではなく、祝賀の装いで、白、赤、緑の色が使われていた。さらに、特に高価な素材と「権力の色」(紫、金、銀)が使用された。ワシリー3世とその息子のイワン雷帝など、死の前にスキマ修道士(厳格な苦行戒律を行う、最高の段階の修道士)となったツァーリだけが黒服を着せられていた。 

 一方、会葬者たちは黒または青い色の、古いボロ服を着なければならなかった。 

「良い身だしなみは、故人を軽視していると受け取られた。近しい人を悼むなら、自分の服装など気にかけるべきではなかった」。歴史家マリーナ・ログノワはこう書いている。

アルハンゲリ大聖堂に保存されている棺桶

 17世紀初頭にロマノフ朝が誕生すると、ツァーリおよび皇族の葬儀は、既にいくつかの特徴を備えていた。ツァーリの死を最初に知らされたのは、正教会の最高指導者、総主教と大貴族だ。それから弔いの鐘が鳴らされ、総主教は聖堂に赴き、祈りを捧げた。ツァーリの側近たちは、黒服をまとい、葬儀関連の務めを果たした。

 ツァーリの亡骸は、温水で洗い清められて、木製の棺に納められた。棺は、外側も内側も、暗赤色の素材で覆われていた。ツァーリの居室で告別が行われると、葬列はアルハンゲリスキー大聖堂(女性の皇族が亡くなった場合はヴォズネセンスキー〈昇天〉修道院)に向かい、そこで葬儀が行われた。

ヴォズネセンスキー〈昇天〉修道院

 葬列では、棺の前にまず聖職者の一団が進み、世俗の者たちが棺の後に続いた。その中で最も重要な人物、すなわち次代のツァーリが、彼らの先頭に立っていた。

 このようにして、イワン・アレクセーエヴィチ(ピョートル1世の実兄、イワン5世)が、黒い杖を持ち、黒い帽子を被って、父アレクセイ・ミハイロヴィチの棺の後を進んだ。もっとも、彼は歩けなかったので、肘掛け椅子で運ばれたのだが。

 ツァーリの未亡人も、自分で歩かず、橇で運ばれる習わしだった。皇族の後には大貴族が続いた。葬列は、念入りに守られており、一般人は葬列に加わるのを許されなかった。

『フョードル3世の死』、K.レベデフ

 聖堂の中では、葬式の直前に、会葬者全員が故人に対し、許しを乞うた。明らかに故人を侮辱したり悲しませたりしたこと、あるいはついうっかりそうしてしまったことなど、すべてに対して、詫びたのである。これは、「泣き屋」と同じく、ロシアの伝統だった。棺の傍らでは、40日間にわたり、昼夜を問わず聖職者が「ダヴィデ詩篇」を朗唱した。

 ツァーリの死と、新たなツァーリの即位は、国中に布告が送られて、民衆に知らされた。すべての教会で40日間、故人の追悼がなされ、40日目には、「ソロチーヌイ」(追悼会)の食事と施しが行われた。

 伝統によれば、ロシアの地のために神に執り成しを行う者、すなわちツァーリが亡くなったときには、慈悲が示されるべきだとされていた。金持ちは施しをし、教会にお金を寄付した。皇室の女性は貧者を養うために喜捨した。マリーナ・ログノワによれば、ツァーリの葬儀には、年間の国家予算に等しい額が費やされたらしい。

 さらに、どのツァーリの葬式も…犯罪の蔓延をともなった。当局は、やはり伝統により、ツァーリの死去に際しては犯罪者への恩赦を宣言する義務があり、そのため、死後数週間はとくに危険だった。

 だが、ピョートル大帝は、ロシアにおける他の多くの事物と同様に、こうした葬式の伝統をも打ち破り、一変させた。

ツァーリの葬式の改革者でもあったピョートル大帝

 1699年、フランツ・レフォルトが亡くなった。彼は、スイス出身の軍人で、ピョートル1世の友人であり同志でもあったから、ツァーリは大変悲しんだ。

フランツ・レフォルト

 レフォルトは、モスクワ式には埋葬されなかった。プレオブラジェンスキー連隊の一中隊、軍楽隊とともに、葬儀用の馬衣をかけた馬が数頭進んだ。棺の後ろに、レフォルトが生前授与された勲章がクッションに載せられて運ばれた。そして棺が墓穴に下ろされたとき、礼砲が発射された。

 もう一つの「革新」は弔辞だった。つまり、ピョートル1世自身が、レフォルトの墓の上で弔意を表した。そして、二人の騎士が葬儀に参加した。その後はこれが、ロシアの君主の葬式では必須となった。とはいえ、レフォルトあるいはピョートルがこれを発明したわけではない。

 フランス王の葬儀の伝統によると――ロシア皇帝の葬儀の大部分はその模倣なのだが――、君主の死は二人の伝令使により発表された。喪服を着た伝令使が、「国王陛下は死せり!」と言い、もう一人の伝令使は礼装を着て、トランペットのファンファーレに合わせて、「国王陛下、万歳!」と叫んだ。この一連の行為は、王権の継続性を誇示するものだ。ロシアでも、喪式の悲しみと新帝誕生の喜びが二人の騎士によって体現されることになった。

 金色の鎧を身に着けた騎士は剣を上げて、生命を象徴し、黒い騎士は剣先を下げて、死を含意した。1894年11月7日、黒と金の騎士が皇帝アレクサンドル3世の葬式に参加したのが、この儀式の最後となった。

 ピョートル1世時代の貴族や皇族の葬式は、ロシア伝統のそれとはまったく違っていた。まず第一に、泣き喚いたり、大げさに嘆いたり、許しを乞うたりするのは禁じられた。ピョートル1世自身が、新たな葬式の創始者の一人であり、彼もこれにしたがって葬られた。

 1723年4月4日、彼は、ロシアの外交官に対し、外国の葬儀の式次第を書き送るよう命じた。さらに彼は、要人や近親者の葬式で「セレモニー」を「練り上げていった」。概して彼は、葬式が好きで、しばしば出席した。

 新しい慣習によると、故人との別れはもっと長く、儀式的になり、以前ほど速やかに葬ることはもはや不可能だった。つまり、防腐処理が必要になったわけだ。

 ピョートル自身が、死後に防腐処理を施された最初のロシア皇帝になった。しかし、この処置は既に、彼の妹の亡骸に行われていた。ナタリア・アレクセーエヴナが1716年に42歳の若さで亡くなったとき、兄は外国にいた。彼は、愛する妹の遺体に防腐処理を施し、自分の帰国を「待つ」よう命じた。

 ピョートル1世自身は、死後1か月半経ってからやっと埋葬された。何らかの理由により、妻のエカテリーナがそう主張したのだが、死後10日で皇帝の遺体は早くも黒ずみ、腐敗した。彼の防腐処理は失敗したのである。

ピョートル1世はいかに葬られたか? 

 ピョートル1世の葬儀は空前の規模だった。葬儀は、ピョートル1世の側近で友人のヤコフ・ブリュース率いる、特別に組織された葬儀委員会が取り仕切った。2月13日以降(皇帝は1月28日に亡くなった)、皇帝の亡骸は、厳粛に装飾された冬宮の「嘆きの間」に安置された。このホールは、内側が黒布で覆われ、200平方㍍もの広さがあった。

ピョートル大帝の「嘆きの間」

 皇帝は棺に安置され、銀色の刺繍が施された明るい紫色の服を着せられていた。棺の周りには、国家のシンボル、レガリア、そして皇帝の勲章が置かれていた。寓話的な彫刻とピラミッドもホールに立っており、皇帝の偉業と功績を象徴した。ホールに導く六つの扉の上には、ロシアの諸都市の紋章が置かれた。ホールの装飾と彫刻は木製だ。その当時として珍しかったのは、ロシアのイコンがまったくないこと。

 皇帝の亡骸の傍らには、12人の高官、将軍、元老院議員が侍立していた。大勢の人々がひっきりなしに訪れ、遺体を目にして泣き叫んでいた。ピョートル1世は、大声で泣き喚くのを禁じ、重要な葬式にそういうことがないように厳しく監督していたにもかかわらず、彼が死んだときは、叫びとすすり泣きは、日々、皇帝の遺体の傍から消えることがなかった。最も悲嘆にくれたのは、皇后エカテリーナで、毎日亡き夫を訪れた。ニキータ・ウィリボア副提督(海軍中将)はこう回想している。 

「彼女がまるで滝のように涙を流すのに誰もが驚き、これほどの水分が一人の女性の頭部にいったいどのように収まり得るのかどうにも理解できなかった。…彼女が夫の遺体の傍に付き添っているとき、大勢の人がわざわざ皇宮に出かけて、彼女が泣き崩れる様子を眺めた」

 エカテリーナは、棺を閉ざすように何度も頼まれたが、なぜかためらっていた。

 ピョートル1世の葬式はようやく3月10日に始まった。彼の遺体は、冬宮からネヴァ川の氷上を通り、ペトロパヴロフスク大聖堂に運ばれた。1250人が松明を手にして道を照らし出した。名誉ある警護兵は、全部でほぼ1万1千人。葬列は、166の様々な集団で構成され、しかも、そのすべての者がペアを構成していた。一人はロシア人で、もう一人はロシア軍に勤務する外国人だ。

ペトロパヴロフスク大聖堂にあるピョートル1世の墓石

 例えば、黄金の騎士は、宮廷の厩舎担当のクジマー・テレミツコイで、黒い騎士は砲兵中尉ヴィルムートだった。葬式は複雑で長かった。サンクトペテルブルク全市が服喪のリボンで飾られ、大砲は式典中、絶え間なく空砲を轟かせた。

 このようにして、亡骸を納めた棺は、ペトロパヴロフスク大聖堂に運ばれ、そこで皇帝に最後の別れを告げた。墓の前での弔辞は、聖シノド(宗務院)の副総裁フェオファン・プロコポヴィチが述べた。このとき、かの有名な言葉が発せられた。

「これは何か?ロシアの人々よ、我々はここまで生きてきて何を目にするのか?我々は何をなさんとするのか?ピョートル大帝を葬るのだ!…」

 しかしピョートルは、埋葬はされず、象徴的に、ほんの一握りの土が棺の蓋の上にふりかけられた。皇帝の墓も、大聖堂全体もまだ完成していなかったからだ。

ペトロパヴロフスク大聖堂

 ピョートルの亡骸の傍らには警護がさらに6週間侍立していた。皇帝の服喪が1年間にわたり宣言された。1727年、間もなく夫の後を追ったエカテリーナの棺が、ピョートルのそれに加わった。

 こうしてついに1731年5月29日、二人の埋葬が行われた。51発の礼砲の下、二つの棺は南の身廊にある二重の地下室に安置された。

ピョートル1世の葬式

 そこから棺を取り出すことはもはや不可能である。そのためには、大聖堂全体を解体しなければならないからだ。

 まさにピョートル1世の生涯を通じての意志により、彼の子孫のために君主のイメージが確立された。ちなみに、ピョートルは、デスマスクをとられた最初の皇帝だ(オリジナルの蠟のマスクは残っていないが、それから制作された石膏のマスクは現存する)。また、ピョートル以後、幾人かの皇帝の臨終が絵画に描かれている。

 また、ヤコフ・ブリュースの監修になる葬儀アルバム『ピョートル大帝の葬儀の式次第』が刊行された。この出版物のイラストは、9メートルに及ぶ巻物で、葬列の全体が描かれていた。つまり、すべての参加者とその位階が記されていた。

 しかし、ロシアの民衆は、こうした葬式に独自の反応をした。ピョートルが死去した1725年に、人気を博した有名なルボーク(民衆版画)『猫を埋葬するねずみたち』の最初のバリエーションが登場している。これは無名作者が皇帝の葬列を描いた、あからさまなパロディだ。

『猫を埋葬するねずみたち』

 ロシアの民衆にとって、農村の葬式はありふれたものだったが、「宮廷の泣き屋ども」の行為は奇妙に思えた。彼らは偽善的にも、残酷で恐ろしい皇帝を悼んでいる。まるで鼠たちが、つい最近まで自分を追い回し食らっていた猫が死んで、泣いているようなものだ、というわけだ。

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