スターリンはなぜ母親を恐れたか:独裁者の母、エカテリーナ・ゲラーゼの生涯

ヨシフ・スターリンと母

ヨシフ・スターリンと母

スターリン記念国立博物館、ゴリ市、グルジア
 ソ連の独裁者スターリンの老いたる母は、息子の「職業」が気に入らなかった。

 スターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーエワはかつて、自分の「全能」の父親は、母親以外は誰一人恐れていなかったと言ったことがある。スターリンの母、エカテリーナ・ゲラーゼ(愛称はケケ〈1858~1937〉)は、ロシア語を話せず、息子の「職業」に失望していた。 

若き花嫁

エカテリーナ・ゲラーゼ

 ケケの父は、解放される前は、グルジア貴族が所有していた農奴だった。彼は、娘が生まれた頃に亡くなっている。当時の慣習に反して、ケケの母は、娘がグルジア語の読み書きを覚えるように配慮した。

 ケケの母は、ロシア帝国の農奴解放(1861年)の後に亡くなった。うら若いケケはゴリ市に引っ越した。そこで彼女はしばらくしてから、スターリンの父に出会うことになる。

 身寄りのない若い娘はすぐに、この地元の靴屋、ヴィッサリオン・ジュガシヴィリと結婚した。彼女の結婚時の年齢は、ソ連のプロパガンダによって意図的に変更され、実際よりも年上にされたと考える者がいる。当時、彼女はわずか16歳だったとする資料もある。 

家族の終わり

エカテリーナ・ゲラーゼ(スターリンの母)とヴィッサリオン・ジュガシヴィリ(スターリンの父)

 結婚後まもなく、相次ぐ悲劇が若い夫婦の暮らしに影を落とす。夫婦は、1875年に子供を授かるが、生後2か月で死亡。二人目の子供も生後1年で亡くなった。

 1878年12月、ケケとヴィッサリオンの間に三人目で最後の子供が生まれた。この子供は、人類史上最強かつ最恐の男の一人として記憶されている。

 次々に子供を亡くしたことに耐えかねて、かつては熱心に教会に通っていたヴィッサリオンは、アルコールを乱用し始める。人の変わった夫に、若い妻は悲しまされた。彼女は、いよいよ粗暴になっていく夫とは、もううまくやっていけないと感じる。

 当然だが、一人息子の将来についても、夫妻の間で口論が続いた。ヴィッサリオンは、息子が自分に倣い職人になることを望んでいたが、ケケは息子を司祭にしたがった。彼女の考えによると、母国グルジアでは司祭が特権的な階層だったからだ。

 スターリン(本名はヨシフ・ジュガシヴィリ)の父は、息子の教育をめぐり、何度目かのお決まりの激論の後で、家を出た。父は、授業など時間の無駄だと考えていたが、母は教育を優先すべきだと信じていた。

 結局、ケケの言い分が通り、幼いヨシフは、1888年9月にゴリの教会学校に入学した。学校では、ときどき罰せられたりしたが、成績優秀だった。

「新しい皇帝」の老いたる母親

 若いヨシフは、マルクス主義に傾倒し、神学校から放校処分になる。やがて「スターリン」の筆名を用いるようになり、革命活動に積極的に関わっていく中で、母親と会う機会もなくなる。母にゴリで再会したのは、シベリアの流刑先から脱走した後の1904年のことだ。その後、スターリンは10年間にわたり故郷を離れる。

 スターリンがボリシェヴィキ党の中で重きをなすにしたがって、その母親もまた政治的に重要な存在になっていく。そしてついに、彼女の安全と幸福が、新生ボリシェヴィキ政権の優先事項の一つにとなったわけだ。

 ケケは、ロシア革命前にカフカス総督が住んでいた宮殿に移された。しかし、老婆は小さな部屋を一つ占めただけだった。

 息子スターリンは、1930年代半ばには、強大な権力をもつ恐るべき政治家になっていた。彼は、母親の世話を、悪名高い側近、ラヴレンチー・ベリヤに任せた。ソ連の秘密警察を率いた血塗られた男は、この高貴なる任務を真剣に受け止めた。スターリンの老いたる母は、街角にしばしば現れたが、ベリヤの配下によって厳重に守られていた。

(左から)エカテリーナ・ゲラーゼ、ラヴレンチー・ベリヤ、ネストル・ラコバ、ヨシフ・スターリン

 一方、スターリンは、母親に対し、電報のような短い手紙をときたま書き送るだけだった。たぶん、ソ連の統治に関連する仕事に忙殺されたせいもあるだろう。

 ケケはロシア語の読み書きができず、一方、息子はグルジア語で書くのに苦労した。このことがさらに、母と息子の交流を難しくした。

 スターリンは1921年と1926年に母のもとを訪れた。ケケもモスクワにやって来たことがあったが、モスクワは「どうも気に入らなかった」という。 

 勃興する超大国の全能の独裁者は、1935年10月17日に母親を最後に訪れている。このとき二人は、スターリンの新たな地位について話した。ケケが息子に、何で生計を立てているかと尋ねると、彼はこう答えたと伝えられる。

 「お母さん、僕たちのツァーリを覚えている?僕は、まあ、ツァーリのようなものさ」

 「お前は司祭になったほうが良かっただろうに」。老婆は答えた。

 彼女の返事の露骨な調子は、当時のソ連では前代未聞だった。彼女以外の誰も、恐ろしい独裁者に向かって、これほど真っ正直に本音を吐くことはできなかった。

 後年、スターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーエワはこう語った。父スターリンは誰も恐れていなかった――ただ一人、父が幼いときに体罰で懲らしめた母親を除いては、と。

 ケケは、1937年6月4日に肺炎で、80歳前後で亡くなった。スターリンは、葬儀のために職務を離れることをせず、使者としてベリヤを送り、棺を担がせた。花輪には、グルジア語とロシア語で次のように記されていた。

 「愛する母へ、息子ヨシフ・ジュガシビリユガシヴィリ(スターリン)より」

エカテリーナ・ゲラーゼの墓碑

 これが、独裁者が亡き母に送った別れの言葉だった。 

*スターリンはなぜスターリンと名乗ったかについてはこちらからどうぞ 

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