スターリンにはグルジアなまりがあったか:現存する映像、音声の間に矛盾が…

Sputnik
 現代の一般のロシア人がもつイメージとしては、ソ連の独裁者スターリンは、強いグルジア(ジョージア)なまりでロシア語を話した。映画などでもしばしばそのように描かれているし、多数の演説の録音でも、多かれ少なかれなまりがあるようだ。だが、実際はそうではなかったという証言もある。

 現代のロシア人のほとんどは、当然、スターリンを直に見たことはおろか、彼の演説の動画もあまり目にしていない。だから、そういう動画がYouTubeにアップロードされると、多くの人が、「初めて彼の声を聞いた」とコメントし、彼のふるまいにも驚く。

 つまり、あのスターリンが笑ったり冗談を飛ばしたりし、庶民が彼に対して拍手喝采し、彼と会って幸福感に輝いているなんて!というわけだ。しかし、これは驚くには当たらない。スターリンのカリスマ的で「ポジティブ」な映像は、長年アーカイブにしまい込まれていたのだから。

 1956年の有名なソ連共産党第20回大会で、第一書記ニキータ・フルシチョフは、スターリンの犯罪について報告し、個人崇拝の暴露への道を開いた。

 スターリンの遺体は、レーニン廟から運び出されて、クレムリンの壁際に埋葬された。国中にあったスターリンの銅像も破壊され、テレビに映らなくなった。さらにフルシチョフは、映画が個人崇拝を生み出すうえで重要な役割を演じたと指摘した。

 政府の決定により、その後数年間、スターリン時代に撮られたそのプロパガンダ映画は上映されず、もちろん新しい映画も製作されなかった。

 現代のロシア人は、ソ連時代後期および現代の多数の映画、風刺、カリカチュアなどに描かれたスターリンのイメージに慣れている。これらの媒体では、「諸民族の指導者」は、必要にして不可欠な属性を備えて、しかも誇張された姿で現れる。軍服、帽子、パイプ、そしてきついグルジアなまりで。このなまりがあたかも彼のイメージに不吉さを加えるかのようだ。

 しかし、こういうイメージは果たしてどの程度真実に合致しているのだろうか?グルジアなまりはどのどれくらい強かったのか?スターリンの演説を生で聞いた人たちは、録音の声が実際とかけ離れていることに驚いている。

 スターリンの親戚、マリア・スワニゼの日記が、ソ連共産党中央委員会政治局の元アーカイブに保存されている(彼女の夫は、スターリンの最初の妻、エカテリーナの弟だ。スターリンと家族ぐるみで親しかった)。ふつう、マリアはスターリンの演説を生で聞いていたのだが、1936年にラジオで聞いたとき、非常に驚いた。 

 「不思議なことに、私は、彼の声とは思えなかった。マイクを通すと声音が違って聞こえ、肝心なのは、なまりがふだんよりもはるかに強かったことだ。彼は、ロシア語でとてもきれいに話し、いかにもロシア的な見事な言い回しをするのだったが…」

スターリン――ロシア化したグルジア人

 スターリンの本名は、ヨシフ・ジュガシヴィリ。1878年にロシア帝国のチフリス(現グルジア〈ジョージア〉の首都トビリシ)の近くのゴリで生まれた。彼は8歳までロシア語を知らなかったが、母親は、彼を正教神学校に入れたいと考え、地元の司祭の子供たちに、息子にロシア語を教えてくれと頼んだ。その結果、わずか2年で彼はロシア語を習得し、直ちに第2学年に入学した。

ヨシフ・ジュガシヴィリ(スターリン)、1902年

 チフリスには革命家がたくさんいた。モスクワとサンクトペテルブルクから追放されてきた人々だ。ヨシフは彼らと積極的に付き合って、マルクス主義に興味をもち、やがてロシア帝国各地でアジテーションに従事するようになる。もちろん、彼は主にロシア語を話した。そのころ彼は、スターリン(鋼鉄の人)というペンネームを使うようになったが、これはもちろんロシア語だ。その後、ウラジーミル・レーニンは彼を、党の責任ある地位(中央委員)に任命する。

 スターリンの娘、スヴェトラーナ・アリルエワは、回想録『友人への二十通の手紙』の中で、自分は6歳になるまで父親がグルジア人だということさえ知らなかった、と書いている。家庭ではロシア語を話し、兄だけが彼女に「父はグルジア人だったよ」と言った。しかし、それが何を意味するのか、彼女は分からなかったという。

 スヴェトラーナはこう振り返っている。「グルジア的なものは、私たちの家では育まれなかった。私の父は、完全にロシア化していたので」

 そもそも民族的な問題はあまり人々の関心を引かなかったし、スターリンは自分のルーツに苛立ってさえいた。

 「グルジアから同志たちがやって来ると、父はすごく憤慨していた。なにしろ彼らは慣習として――グルジア人はこれなしでは生きることができない!――ワイン、ブドウ、果物など、贈り物をどっさり持参したから」

声の問題か、録音の問題か? 

 しかしまた、やはりスヴェトラーナの回想によると、スターリンは、グルジアの歌のみならず、ロシアとウクライナの歌を好み、友人たちといっしょに嬉々として歌ったという。

 「父は、良い音感と高いきれいな声をしていた(ところが、しゃべるときは逆に、何かの理由でぼそぼそと低い小声で話した)」

 この聞こえにくい、ぼそぼそした声については、黒海沿岸の保養地ソチにあったスターリンの別荘の管理人も証言している。そのため、特別な音響装置がスターリンの執務室に作られたという。会議などの出席者が、この指導者のぼそぼそ声をよく聞き取れるようにという配慮だ。

 これらすべてにくわえてマリア・スワニゼは、録音の質が劣悪であることを指摘している。まるで、スターリンが騒がしい部屋で話しているかのようで、聞き取るのが難儀だという。マリアは、「録音係の妨害行為」を疑ったほどだった。

 以上を総合すると、スターリンのロシア語は、ぼそぼそ声で聞き取りにくく、少々グルジアなまりがあった(概して、お国なまりというものは、完全になくすのは無理なことが多い)。それがさらに、古いマイクと録音機のせいでさらに聞きにくくなったということのようだ。

 さらにまた、演説の時と場所による違いもある。これは、地下鉄の開通セレモニーにおけるスターリンの演説だが、かなり自由で、遊び心もある。なまりはほとんど目立たず、いくつかの単語と音の組み合わせに現れるくらいだ。 

 こちらは、1941年の独ソ戦勃発直後における、スターリンの国民向けの演説のラジオ録音だ。彼は、間をとりながら、明らかに自分の声をコントロールしている。なまりはない。 

 これも1941年の録音だが、赤軍の前での演説で、より自由に話している。ときどき原稿をちらっと見るが、あとはそらで話している。おそらくは、気分が高ぶっているために、なまりはもっと目立っている。

 これは1952年の演説。スターリン最後の演説の一つで、党を前にしてのものだ。ここでは彼は、間を置きながら、非常に明瞭に話している。なまりはほとんどない。しかし、声音となまりは、1941年とは著しく異なる。専門家たちは、年齢だけでこんなに変化することはあり得ないと考えている。そのため、この変化は、歴史上の謎の一つとみなされている。

ふだんの生活でグルジアなまりはあったのか? 

 ゲオルギー・ジューコフ元帥の回想録によれば、スターリンは小声で話し、一つ一つのフレーズを明確に区切ったという。

 「彼は、グルジアなまりが目立ったが、ロシア語を完璧に知っており、イメージ豊かな、文学的な比較、例、比喩を用いることを好んだ」

 スターリンの通訳、ワレンチン・ベレジコフによると、スターリンにはグルジアなまりがあり、しかもそれをわざと弄ぶこともあったという。

 イギリスのチャーチル首相と、第2戦線(西部戦線)をいつどのように開くかについて緊迫した話し合いがもたれていたとき、ベレジコフの回想によれば、スターリンは、「たぶんわざとグルジアなまりを強調して、ゆっくりとしゃべった」。そして、英国はドイツを「怖がってはいけない」などと、かなり手厳しい発言をしたという。 

 もう一つの面白いディテールを、スターリン晩年の通訳、ウラジーミル・エロフェーエフがインタビューで語っている

 「モロトフはこう警告した。スターリンに決して聞き返してはならない。よく聞き取れなかったとしても、何とかその場をしのげ、と。聞き返すと、俺のなまりで分からなかったのかと思い、スターリンは気分を害する、とモロトフに言われた」

 興味深いのは、スターリン自身の、グルジアなまりに対する感じ方も、変わっていったらしいことだ。ソ連では、数多くの「疑似歴史的な」プロパガンダ映画が製作され、その中でスターリンは英雄として登場していた。

 スターリン自身の承認を得て、彼の役は、グルジア人俳優、ミハイル・ゲロヴァニが長年演じた。俳優自身は、スターリンに一度も会ったことはなかったので、ラジオの演説を聞いて準備し、そのジェスチャー、顔の表情、話し方となまりの特徴を真似ようとした。 

 ところが、1949年、映画『スターリングラードの戦い』の準備中のことだが、グルジア人俳優はロシアの指導者・勝利者の役にはふさわしくない、とスターリン自身が判断して、ソ連映画省を率いていたイワン・ボリシャコフに伝えた。

スターリン役を演じた俳優:ミハイル・ゲロヴァニ(左)とアレクセイ・ディーキー(右)

 「ゲロヴァニには、きついグルジアなまりがある。私はあんなになまっているかね?同志スターリンの役にふさわしい俳優を考えてほしい。ロシア人の中から選ぶのが最良だろう」。こうして俳優アレクセイ・ディーキーがこの役を与えられた。 

 ヒトラーに勝利した後、スターリンは完全に、「ロシアの指導者」のように自分を感じ始め、もはや“一地方”のグルジアと結び付けられるのを望まなくなった、と考える人が多い。

陰謀説も

 陰謀論者たちは、グルジアなまりをめぐる、こうした様々な矛盾が簡単に説明できると信じている。例えば、スターリンには多くの影武者がいたという説で、なまりが強い者も無い者もいたという。

 スターリンはグルジア人ではなかったという説も流布している。彼の家族は、グルジア人ではなく、オセチア人のルーツをもっていたというのだ。

 もっと謎めいた説は、スターリンの父親はヴィッサリオン・ジュガシビリではなく、探検家ニコライ・プルジェヴァリスキーだというもの。探検家は、ゴリに立ち寄り、滞在したという。

探検家ニコライ・プルジェヴァリスキー(左)とヨシフ・スターリン(右)

 しかし、生物学上の父親がグルジアなまりとどう関係するのか分からない。スターリンは8歳までグルジア語を話していたし、ずっと後に、大粛清の主な実行者の一人、ラヴレンチー・ベリヤと話すときもグルジア語だった(ちなみに、ベリヤのほうがなまりは強かった)。

 さらには、ラジオで話しているのはスターリンではなく別人であり、また映像にもやはり別人の声がかぶせられたという説もある。

 しかし、我々が真実を知ることはまずないだろう。動画を眺めながら、いったいどうやってスターリンが、残虐な暴君である一方で、大衆を魅了することもできたのか、首をひねるだけだ。

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