冷戦時代の「真ん中の男」:米ソの歴代首脳は会談をこの人に預けた

Yuri Abramochkin/Sputnik
 ドワイト・アイゼンハワーからロナルド・レーガンにいたるまで、ソ連の通訳ヴィクトル・スホドレフは、米ソの首脳会談における「ソ連の声」だった。

 1959年9月、ニキータ・フルシチョフがアメリカに到着。彼は、訪米した最初のソ連指導者となったが、冷戦の主な敵であった国で、かなりの騒動を引き起こした。

 エキセントリックなソ連指導者は、いくつかの場所にドライブに連れていかれたが、ロサンゼルス周辺を走っていたときのこと、車の中から、当時のソ連ではあり得ない、タイトなショーツを履いた若いアメリカ人女性を目にした。

ニキータ・フルシチョフの訪米

 フルシチョフは、自分に同行していた米国連大使、ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアに向かってこう言った。

 「あなた方のところには、面白いものがありますな…女が短いパンツを履いて歩いておるとはね。わが国では、こんなことは許されんでしょうな」

 それからフルシチョフは、きれいに刈られた芝生と民家をまじまじと見て、またロッジに話しかけた。

 「むろん、すべてがきちんと整っておって、清潔で、人々の身なりもいい。まあ、いいさ!わが国にいらっしゃれば、“クジマーのおっかさん”をご覧にいれますぞ…」

 これに先立ち、同1959年7月24日のこと、モスクワのソコーリニキ公園で、「アメリカ産業博覧会」の開会式が行われ、米国の副大統領リチャード・ニクソンが出席。その際に、ニクソンとフルシチョフとの間で、有名な「キッチン討論」が起きたわけだが、衝動的なソ連指導者はそのときも、「クジマーのおっかさんを見せてやる」という俗語を使っていた。

 これは、何らかの脅威や罰を加えるという表現だ。つまり、「誰かに目にもの見せてくれる」とか「残酷な方法で誰かを罰する」ことを意味する。けっこうヤバいので、このときは、文字通り「クジマーのお母さんをお見せする」と訳されていた。

 フルシチョフとニクソンの「キッチン討論」は別として、ソ連指導者が共通して使うような俗語が、スホドレフを慌てさせるようなことは、もちろんなかった(彼は、フルシチョフの米国訪問に同行していた)。スホドレフはちゃんと「宿題」をやっていたからだ。

 「 『クジマーのおっかさん』事件の後、私はあらゆる辞書に目を通した。これは罵り言葉で、これ以上強烈な罵言は使いようがない場合に使う。私は、この表現に相当するものを探した。『手前の頭を蹴っ飛ばしてやるぜ』とか『地獄を見せてやるぜ!』といったところか…」

 ところが、1959年9月にフルシチョフは、ロサンゼルスでのドライブ中にまたも「クジマーのおっかさん」を口にしたのだった。そして、彼はいきなり、同乗して通訳を務めていたスホドレフに向き直って、自分でこう説明した。

 「私がニクソンと博覧会にいたとき、この文句は間違って訳されていたな。意味はとても簡単で、『あなたが見たことのないものをお見せします』という意味だよ」

 「私は一瞬凍りついた。どの辞書でも、この表現のこんな解釈を見たことがなかったからだ」。スホドレフはこう語っている。要するにフルシチョフは、有名な俗語の新しい意味を発明したわけだ。

1960年、ニューヨーク。ヴィクトル・スホドレフ(左側)、ニキータ・フルシチョフ(中央)、アンドレイ・グロムイコ外相(後ろ)

 長年にわたり、ヴィクトル・スホドレフは、そのプロ意識、機敏さ、彼自身のカリスマ性のおかげで、ソビエトの指導者だけでなく、国連、米国務省、さらにはホワイトハウスでも、多くの人々と友人になった。

 

幸運な偶然

1979年、ヴィクトル・スホドレフが真ん中、ジミー・カーター米大統領が左、ソ連指導者レオニード・ブレジネフが右

  紳士然とした黒髪の男性が、ジミー・カーター米大統領とソ連指導者レオニード・ブレジネフに挟まれて真ん中に写っている。こういう写真が、冷戦時代の米ソ首脳会談に際し、多く現れた。

 ある意味で、ヴィクトル・スホドレフは、外交の分野でキャリアを築く運命にあった。子供時代をロンドンで過ごしたためで、彼の母親は、ソ連通商部の職員として同市に駐在していた。

 「(第二次世界大戦中に)ロンドンの夜間空襲の間、ソ連通商部の防空壕で座りながら、私は母に、『ねえ、子供たちは、どんな話をしているんだろう?』とよく尋ねたものだ。その後、私はイギリスの子供たちと付き合い、遊ぶようになった。だから、大した努力もなしに、私は英語を話し始め、ロシア語を忘れたほどだった」。スホドレフは、インタビューの一つでこう述べている

 ソ連に戻る頃には、スホドレフは英国人のように英語をしゃべっていた。彼は、ソ連の学校では、英語の授業を免除され、後に外国語大学に入り、そこでフランス語も学んだ。

 こうした幸運な偶然は、この人物が輝かしいキャリアに向かって踏み出すのを助けた。彼は間もなく、冷戦の主要なライバルに対する、ソ連の「英語の声」となるだろう。

 「1955年に、建設相が率いる、不動産開発者の代表団が訪英した。私の同窓生の一人は、父が建設省で働いており、父に私のことを話してくれた。それで、私はまだ5年生だというのに、代表団の一員となった。これが、公式の通訳者としての私の最初の経験だ」。こうスホドレフは語る。

 間もなくスホドレフは、ソ連最高の通訳、オレグ・トロヤノフスキーの目に留まった。これは、スターリン、モロトフ、グロムイコの通訳を務めた人物だ。彼は、自分の後継者を探していて、この若い候補者を承認した。こうして、スホドレフはソ連外務省に入った。

 

「真ん中の男」 

リチャード・ニクソン米大統領の訪ソ。リチャード・ニクソン米大統領(左側)、レオニード・ブレジネフ中央委員会書記長(右側)、ヴィクトル・スホドレフは真ん中。

 スホドレフは、ソ連指導者、ニキータ・フルシチョフと公式のレセプションで初めて会った。  

 「その瞬間、ライトが点灯し、カメラがカシャカシャと鳴り始め、『生きた肖像画』がホールに入ってきた。フルシチョフ、ブルガーニン、モロトフ、カガノヴィッチ、ミコヤン…。こんなお歴々のために通訳するのは怖かった。その日、私はフルシチョフの通訳を45分間行った」。後年、スホドレフは振り返っている。

 彼はまだ知る由もなかったが、この若き通訳者は間もなく、「鉄のカーテン」の両側で目立つ存在となり、彼自身が有名人になった。

 スホドレフは、ロシア語から英米いずれの英語にも、何でもかんでも自由自在に訳した。彼のこのプロフェッショナリズムと天与の才能について、高官たちはますます知るようになり、結局、この通訳の名手は、米大統領7人とソ連指導者5人を相手にすることになった。スホドレフは、米国務省とホワイトハウスのスタッフにとって、ソ連外交団の絶えず変化する団長よりも、はるかにおなじみになった。

 スホドレフがこのように親しまれたことは、友情ではないとしても信頼につながることがよくあった。リチャード・ニクソンはしばしば、会談の席に米国側の通訳を加えずに、スホドレフだけに通訳させることを許した。

 ホワイトハウスの有名な通訳、ハリー・オブストは、7人の米大統領の通訳を務めたが、まずありそうもない、極めて示唆的なケースを回想している

 1974年11月、ジェラルド・フォード米大統領がウラジオストクを訪れ、ソ連のブレジネフ書記長と、軍縮に関する会談を行ったときのことだが、フォード大統領はスホドレフに会うと、「やあ、ヴィクターじゃないか!」と旧友のように挨拶した。そして彼を、米代表団のメンバーに紹介した。

 このように、多くの米大統領は彼に友好的だったが、スホドレフには自分のお気に入りがいた。

1961年6月にウィーンで行われた、ケネディとフルシチョフの米ソ首脳会談

 「私は、数多くの外国の大統領や首相に会ったが、最も感銘を受けたのはケネディだ」。こうスホドレフは語っている。彼は、1961年6月にウィーンで行われた、ケネディとフルシチョフの米ソ首脳会談で通訳をする機会があった。

 ケネディ自身は、この会談を「ひどい出来」だと記憶していたから、スホドレフの感じ方はかなり不思議ではある。

 「私の人生で最悪」。ケネディは後に、ニューヨーク・タイムズの記者に語っている。「彼(フルシチョフ)には、ボロクソにやられたよ」

 ケネディは、自分より年かさで海千山千のソ連指導者に、自分を強く印象づけようとしたのだろうが、これは裏目に出た。ただ、フルシチョフの通訳は、新たに選出された米大統領に感心したのだろう。

  名通訳としての長いキャリアを通じてスホドレフは、20世紀に君臨した多数の権力者と会っている。その数の点で、彼の「記録」を超える、当時存命の人物はほぼ皆無だった。彼は、インド首相のインディラ・ガンジー、カナダ首相のピエール・トルドー、7人の米大統領、数人の英首相その他と会った。

 しかし、彼のキャリアは、常に権力者たちの影に隠れていたわけではない。スホドレフ自身が、やがて外交官となり、1989年からは、国連事務総長の特別補佐を務め、その後、安全保障理事会総務局の局長となった。これは、強力な国連機関である安全保障理事会の事務局だ。

 ヴィクトル・スホドレフは、1994年に引退し、ニューヨークから、新たな独立国ロシアに戻った。彼が去ったときのソ連とは随分違った国になっていた。

 有名な通訳、外交官、そして20世紀の多くの偉人の友は、モスクワ郊外の自宅で、81歳で2014年に亡くなった。

 彼は、露米両国でその死を悼まれている。両国が共通の友人に対し、共に別れを告げた、稀な瞬間だった。

 

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