ソ連で非常に人気があった2人。1920年代にはアメリカの国旗をバックにしたダグラス・フェアバンクスの肖像画が入ったキャラメル「ダグラス・フェアバンクス」が発売されたほどである。
ピックフォードとフェアバンクスは1926年の夏にモスクワを訪れ、ファンたちが熱狂的に出迎えた。興味深いことに、ちょうどこのときにソ連の秘密警察の創設者で、ソ連の主要な“死刑執行人”であったフェリクス・ジェルジンスキーが死去し、2人が滞在したホテルの側で告別式が行われた。おそらくファンたちの歓声は棺の中のジェルジンスキーにも届いていただろう。
(左から)ボリス・パステルナーク、ウラジーミル・マヤコフスキー 、内藤民治、外交官のアルセーニー・ヴォズネセンスキー、オリガ・トレチャコワ、セルゲイ・エイゼンシテイン、リーリャ・ブリック。
モスクワ・マルチメディア美術館/ モスクワ写真会館/ russiainphoto.ru1920年代、ソ連と日本はあまり良いとは言えない関係にあった。しかし、ジャーナリストで編集者の内藤民治はソ日関係を改善するために全力を尽くし、日本のマスコミを通じて、ソ連を外交的に承認するよう訴えた。
1924年、内藤民治はソ連政府から正式にモスクワに招聘された最初の日本人となった。彼はスターリンをはじめ、党の代表者や文化界のエリートたちと会見した。
アンドレ・マルローは左翼的な思想の持ち主で、ソ連にシンパシーを感じ、アヴァンギャルド芸術や文学に感銘を受け、革命家レフ・トロツキーに心酔していた。
1934年にアンドレ・マルローはソ連を訪問した。第1回全ソ連作家会議の名誉ゲストとなったマルローはそこでマクシム・ゴーリキー、アレクセイ・トルストイ、ボリス・パステルナーク(写真右側)、イサーク・バーベリなどの作家、そして演出家のフセヴォロド・メイエルホリド(写真中央)と知り合った。
フランス人はよくソ連を訪れた。1935年、ロマン・ロランはソ連を代表する作家マクシム・ゴーリキーに招待され、モスクワを訪問した。ロマン・ロランはこのとき、レーニン廟の上の演壇に立つという貴重な機会に恵まれている。この演壇は普通、ソ連および友好国の共産党の代表だけしか立つことが許されない場所である。ロマン・ロランはここからスポーツ選手のパレードを見学した。
ソ連ではウェルズは非常に愛され、彼の著書は大量に出版されていた。そして、そのウェルズは3回ソ連を訪問し、レーニン、スターリンとも会見し、彼らに魅了された。またマクシム・ゴーリキーとも親交を深めた(皮肉にも、ゴーリキーの愛人で二重スパイだったムーラ・ブドベルグは他でもないウェルズと恋に落ちた)。
1956年、超人気歌手のイヴ・モンタンは、妻のシモーヌ・シニョレとともにソ連で公演を行った。イヴ・モンタンのコンサートは数万人が鑑賞した。イヴ・モンタンは工場の労働者の前でもコンサートを行い、いくつかのコンサートには政府指導部も足を運んだ。
コンサート終了後、フルシチョフ書記長はイヴ・モンタン夫妻をディナーに招いた。イヴ・モンタンはその際、ソ連軍のハンガリー侵攻を歓迎しない考えを明らかにした。フルシチョフは立腹することはなかったが、自らの立場を熱心に説明したという。写真はモンタンとシニョレが、ソ連歌謡界の伝説のアーティストであるアルカージー・ライキンとレオニード・ウチョーソフとお酒を飲んでいるところ(2人は写真左側)。
ロブスンは何度かソ連を訪れた。1934年の初訪問のときには、感銘を受け、「ソ連で初めて、自分が完全な人間だと感じた」と書いている。
しかし、こうしたソ連への共感は、共産主義とアメリカとの関係の中で疑いを持たれ、ロブスンは「ハリウッドのブラックリスト」にも含められた。それでもロブスンは再びソ連を訪問し(写真は1958年のもの)、ロシアの歌まで披露した。
モスクワにある全ソ連国立外国文学図書館でサイン会をするスタインベック
Vladimir Minkevych/Sputnikスタインベックは、1947年に戦後ソ連への旅をスタートした。なぜなら、アメリカの新聞記者らは、「ソ連の人々は何を着ているのか」、「彼らが夕飯に何を食べているのか」、「パーティは開かれているのか」といった質問に答えることができなかったからである。旅行から戻ったスタインベックは、「ロシア紀行」を執筆した。この著書には、共に旅行した写真家ロバート・キャパの写真が収められている。
スーパースターだったマレーネ・ディートリヒは1964年に公演のため、ソ連を訪問した。ディートリヒはモスクワとレニングラードでコンサートを開き、ソ連の観客らからの質問に答えた。もっとも読書好きとされるソ連の国民は、ディートリヒにソ連の作家を知っているかという質問を投げかけたが、この問いに対し、彼女はコンスタンチン・パウストフスキーだと答えた。実はこのパウストフスキーは質疑応答が行われていたホールにいたのだが、彼女はその場で立ち上がり、彼の前で膝まづいた。このエピソードについて詳しくはこちらの記事をどうぞ。
イヴ・サン=ローランとマイヤ・プリセツカヤ、1971年
Getty Imagesソ連初のファッションショーは、1959年に開催された5日間にわたるディオールのショーであった。このときディオールの主任デザイナーであったイヴ・サン=ローランもモスクワ入りし、ショーは大盛況のうちに幕を閉じた。もっとも、ソ連の女性はすべてのファッションを評価したわけではなかった。いくつかの洋服はソ連の女性にとってはあまりに丈が短く、あまりに派手であった。サン=ローランはソ連に大きな感銘を受け、それ後なんどもソ連を訪れた。そして後には、ロシアのモチーフを使い、1976年、最高のコレクションの一つに挙げられるバレエ・リュスコレクションを作り上げた。
1961年に開かれた第2回モスクワ国際映画祭には、外国のスターが大勢出席し、ソ連の観客たちは大歓喜した。というのも、1950年代の末まで、外国人がソ連を訪れることは極めて稀だったからである。とりわけ大きな話題をさらったのが、レッドカーペットの上を同じ衣装で歩いたこの2人であった。エリザベス・テーラーとジーナ・ロロブリジーダは堂々たる姿を見せた。エモーショナルなイタリア人のロロブリジーダは宇宙飛行士のユーリー・ガガーリンの頬にキスをし、メディアはたちまち恋愛関係にあるのではと書きたてた。
ソフィア・ローレンは1964年のモスクワ国際映画祭に出席するためソ連を訪れた。出品された作品は「ああ結婚」で、同作品でソフィア・ローレンは最優秀女優賞を受賞した。このあと、ソフィア・ローレンは何度もソ連を訪れ、ペレストロイカ後のロシアも訪問している。
ソフィア・ローレンは、マルチェロ・マストロヤンニと共演し、戦争によって引き裂かれた夫婦役を演じた映画「ひまわり」に出演したあと、ソ連の映画ファンにとってはかなり馴染みのある女優となった。なお、この「ひまわり」の撮影はソ連とモスクワで行われた。
デヴィッド・ボウイはモスクワとレニングラードを訪れただけでなく、シベリア鉄道で移動した。1973年、日本での公演を終えたあと、デヴィッド・ボウイはウラジオストクから列車に乗り、モスクワまでソ連を横断した。ウラジオストクは当時、閉鎖された軍港であったため、一体どのようにしてボウイがウラジオストクに入ることができたのかは未だに謎である。しかし、ボウイのウラジオ訪問には多くの伝説が残されており、ウラジオストクの通りでちょっとしたライヴを行ったとも言われている。
モハメド・アリはソ連大使の招聘により、1978年にモスクワを訪れた。伝説的ボクサーは皇帝のような扱いを受け、クレムリンでは多くの名誉ある人物と共にレオニード・ブレジネフが彼を迎えた。モハメド・アリはウズベク共和国にも案内され、タシケント、ブハラ、サマルカンドの美しい景色を堪能した。
帰国後、アリは自らの希望により、ソ連のボクサーたちとのボクシングショーを開催した。しかし、1年後、ソ連はアフガニスタンに軍事侵攻し、アリは1980年のモスクワオリンピックのボイコットを訴えた。
シュワルツェネッガーが初めてモスクワを訪れたのは1988年、「レッドブル」の撮影のためである。赤の広場で伝説的なシーンが撮影された。このほか、サンドゥノフ・バーニャ(ロシア式サウナ)でもいくつかのエピソードが撮影されている。シュワルツェネッガーがモスクワに滞在したのは数日であったが、大ファンであるという重量挙げ選手のユーリー・ヴラソフと会い、スポーツクラブ「アトレチカ」にも訪れた。
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