なぜバレエダンサーのルドルフ・ヌレエフは没後26年の今も世界中で人気なのか

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 彼は何においても「初」だった。ソ連のダンサーとして初めて国外公演から戻ることを拒んだ。西側で初めてスーパースターとなった。自分が同性愛者であることを初めて公言した。エイズ(彼はこの病気のため54歳で亡くなった)について初めて語った。

 レイフ・ファインズの監督作品『ヌレエフ  白いカラス』がモスクワで公開された。2017年には、ボリショイ劇場の舞台でキリル・セレブレンニコフが演出したスキャンダラスなバレエ『ヌレエフ』の初演が行われた。このダンサーに関しては、多数のドキュメンタリー映画がほとんど毎年のように制作されている。彼はなぜこれほど演出家らを惹き付けるのだろうか。

困難な子供時代

 1938年3月17日、ルドルフ・ヌレエフはシベリア鉄道の車両内で生まれた。タタール人とバシキール人の猛々しい血を引く一般的なソビエトの少年だった。彼のイメージを理想化する伝記作家らは、この事実を予兆と呼んでいる。だがどうやら実際そうだったようだ。彼の人生は行く先々で波乱に満ちていた。

 第二次世界大戦中、ヌレエフ一家はモスクワからウファに移送された。赤貧、飢えと極寒の苦しみ、学校でのいじめ(彼は姉のお下がりを着ていた)――こうしたことを通して、彼の鋼のような精神は当時からすでに鍛えられていた。

若いルドルフ・ヌレエフ

 ルドルフが6歳のとき、母が運良くバレエのチケットを手に入れた。少年は劇に魅了され、ダンサーになることを決意した。ムスリムの父は反対した。彼は、息子がもっと多くの時間を学校での勉強に充てるべきだと考えていた。だが反抗的なルドルフは屈服せず、父に隠れてダンスのレッスンに通った。

 ウファのダンス講師らは、才能溢れる理想的な人材だった。彼らは少年のポテンシャルを見出し、彼の熱意を評価した。彼らはルドルフに、バレエの技術だけでなく演劇の技能も指南し、ディアギレフのバレエや偉大なバレリーナについて話した。

 指導者らは、レニングラードのワガノワ舞踊学校の卒業生で、母校を国内最高のバレエ学校と考えていた。彼らは、もし本気でバレエのキャリアを積みたいならば、レニングラードへ行くしかないということをルドルフに理解させた。

なお困難な青年時代

 17歳のとき、ヌレエフはこの大胆な一歩を踏み出すことを決意した。親元を離れ、名門ワガノワ舞踊学校に入学したのである。ここでもまた彼は同級生の間で「サンドバッグ」になった。「田舎者」としてからかわれた。だが、またしても講師らには恵まれた。有名なバレエダンサーで当時教授だったアレクサンドル・プーシキンから庇護を受けた。ヌレエフは、寮での日常的ないじめから逃れるため、師匠の家で暮らしたこともあった。

レニングラードでのヌレエフ

 彼は全身全霊をバレエに捧げた。「一歩一歩のパに自分の血の跡が残らなければならない」と若きダンサーは語っている。

 同校の卒業式で彼は才能を認められ、すぐさまソリストとしてマリインスキー劇場(当時の名称はキーロフ記念オペラ・バレエ劇場)の一座に採用された。名高い舞台で『白鳥の湖』での初出演を果たした彼は、観衆の心を鷲掴みにした。1958年のことだった。

ソ連初の「不帰国者」

 3年後の1961年、マリインスキー劇場の一座はパリ公演に出た。ガルニエ宮では、ソビエトの劇場に負けないほどの拍手喝采を浴びた。ダンサーが国外でどのようにふるまうべきかKGBから指令があったにもかかわらず、ヌレエフはフランスのダンサーと交流し、街を散策し、ホテルには決められた時間よりも遅く戻った。

 一座はさらにロンドン公演に向かうはずだったが、ヌレエフにはモスクワ行のチケットが渡された。重要な公演に呼ばれているということだったが、彼は自分が国外へ出ることを禁止されたのだと察知した。そして自由を選んだ。

左から右:ダンサー、マーゴ・フォンテイン、フレデリック・アシュトンとルドルフ・ヌレエフ。ロンドン、1961年。

 フランス政府は彼がフランスに留まることを許し、マルキ・ド・クエバス・バレエ団がシーズン末にヌレエフに契約を提案した。以後彼は実にさまざまな劇場に招待されるようになった。彼は、ロンドン、パリ、カンヌ、シカゴ、ニューヨークで演技を披露した。

運命を決する出会い

 ロンドンで42歳のバレリーナ、マーゴ・フォンテインのダンスを初めて目にした23歳のヌレエフは、彼女のダンスの流儀に惚れ込み、彼女とデュエットを踊ることを夢見た。運命の女神は彼に微笑んだ。英国ロイヤル・バレエ団より、『ジゼル』でフォンテインと共演することを提案されたのだ。彼らのデュエットは観衆を圧倒した。両ダンサーの間で長年にわたる創作活動上の友情が始まった。彼らはエネルギーを補給し合い、共同プロジェクトも数多く行った。

ルドルフ・ヌレエフとマーゴ・フォンテイン

 ヌレエフはロイヤル・バレエ団に長年留まり、1977年までここで踊り続けた。そのほか、彼は他の多くのプロジェクトにも招かれ、彼自身が振付指導を行うこともあった。コペンハーゲンでヌレエフはエリック・ブルーンと知り合った。ヌレエフは以前からブルーンのダンスの才能に魅了されていた。ダンサーらは愛し合うようになり、ブルーンが1986年に亡くなるまで、公然とした密接な関係が続いた。

ロドルフ・ヌレエフとエリック・ブルーン

パリ・オペラ座とHIV

 1983年、ヌレエフはパリ・オペラ座の芸術監督になるよう提案された。彼はバレエの新しいビジョンをもたらし、古典的な演出も実験的な演出も手掛け、世界規模のスターを何人か育て上げた。彼のもとで一座は世界中で必要とされるようになり、しばしば国外公演に出た。

故郷を去ってから30年後の1989年に、ヌレエフはレニングラードを訪れ、キーロフ劇場で踊った。

 しかし監督就任後間もなく、ヌレエフはエイズと診断される。さまざまな治療を試したが効果はなく、彼は日に日に弱っていった。もはや踊ることはほとんどできず、晩年には指揮者になることを試した。

ルドルフ・ヌレエフ基金の会長がヌレエフの墓を飾る新しい石碑を見せる。1996年5月6日、サント=ジェヌヴィエーヴ=デ=ボワの「ロシア人墓地」にて。

 1993年、ヌレエフはこの世を去った。サント=ジェヌヴィエーヴ=デ=ボワの「ロシア人墓地」に埋葬するようにというのが遺言だった。この墓地には、ブーニン、テッフィ、ギッピウス、メレシュコフスキーなど、多くの著名な文化人が眠っている。ヌレエフの墓は、東洋風の絨毯を目印に容易に見つけることができる。ダンスと同様、絨毯も彼の情熱の対象だった。

 

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