アジアの第二次世界大戦前史:米国がいかにソ連の「手柄を横取り」したか

Archive photo; Public domain; Russia Beyond
 1938年に、ソビエト機は、前例のない空爆を台湾の日本航空隊に対して行い、中国人を大いに感心させたが、アメリカがその手柄を「横取りした」格好となった。ところが、ソ連は気分を害さなかったのみならず、むしろとても喜んだ。

昔の敵は今日の友

1937年12月13日。南京で閲兵する松井石根

 ヨーロッパでは、第三帝国はまだ、「ドイツ国民の生存圏」の確立を目指して力を蓄えている段階だったが、アジアでは日本はすでに、その覇権の下で「大東亜」を積極的に建設していた。

 1931年に日本軍は中国の満州に侵攻し、間もなく傀儡国家「満洲国」が生まれ、1937年には大日本帝国と中国の間で全面戦争が勃発した。こうして、後者の主権そのものがいよいよ危うくなった。

 ソ連は、日本の勢力圏の拡大を注視し、遅かれ早かれそれがソ連極東に波及すると確信していた。こうした状況の下で、ソ連指導部は、長年の敵である中国(中華民国)の国民党およびその指導者、蒋介石と和解した。

 ソ連と中国国民党の敵対関係は、ソ連が長年にわたり、毛沢東率いる共産党の、国民党との戦いを支援してきたために生じていた。しかし、日本の侵略により、双方は交渉のテーブルにつかざるを得なくなった。

 

ソ連のZ作戦

中国の都市を爆撃する日本の爆撃機

 ソ連と中国国民党の交渉の結果、ソ連の対中軍事支援について合意した。いわゆるZ作戦が始動し、その間、中国は、80両以上の戦車、700両の車両、600門以上の大砲、約400丁の機関銃を供与された。

I-16

 供与された武器の中で最も重要だったのが航空機だ。中国の時代遅れの航空機は、瞬く間に日本軍のより近代的なそれに圧倒された。日本軍は制空権を得て、中国の諸都市に、抵抗を受けずに空襲できるようになった。状況を改善するために、ソ連は、日中戦争の初期段階で300機超の戦闘機、I-15とI-16、および約150機の爆撃機、SBとTB-3を国民党に与えた。

ツポレフのSB-2

 

中国の防衛

 中国国民党政府の要請により、赤軍(ソ連軍)のパイロットたちが密かに中国にやって来た。この経験豊かなパイロットたちは、その一部はスペイン内戦に参加しており、中国人将兵を訓練しただけでなく、日本軍との戦闘にも積極的に加わった。

フョードル・ポルイニン

 しかし、日本政府との外交上の摩擦を避けるために、ソ連のパイロットは、名目上は義勇兵となっているか、中国名でカモフラージュしていた。例えば、漢口爆撃機隊(中ソ混成のSB爆撃機隊)の指揮官フョードル・ポルイニンは、Fyn Poと名乗っていた。

 ソ連のパイロットの第一陣は、1937年11月に中国に到着し、直ちに日本軍との戦闘に入った。多くの場合、日本軍に比べて兵力では数段劣勢だったが、中国の都市を守るために、1日に4~5回出撃した。

 日本軍は、中華民国の首都南京における空の戦いでは、かなりの被害を出した。また上海付近の日本軍の飛行場に対し、より正確で効果的な空爆が行われるようになる。

 その結果、日本軍は、これまでより危険で準備を積んだ敵に直面していることに気づいた。日本軍の軍事行動で支配的だった楽天的な気分は、もっと注意深いものに変わった。

 しかしそれでも、ソ連のパイロットが前例のない、台湾の飛行場の空爆を行う事態に備えることはできなかった(ちなみに台湾は、欧米では「フォルモサ」と呼ばれることがある。「美しい島」という意味で、「美麗島」と漢訳されることもある)。

 

大胆な作戦

ソ連のパイロット、漢口飛行場にて

 台湾の主要都市、台北の近くに、松山飛行場(現在の台北国際空港)があった。ここへの空爆は、1938年2月23日、すなわち赤軍創設20周年の日に、日本への「贈り物」として敢行する予定だった。松山飛行場は、当時、日本軍最大の航空基地の一つだ。東京では、それは敵の手の届かないところにあると信じられていた。

 中国空軍の識別マークが付いた28機の爆撃機「SB」は、台湾からほぼ1千キロ離れた武漢近くの漢口飛行場から出撃することになっていた。中ソ混成の12機からなる第2部隊は、南昌海峡の近くから離陸した。

 しかし、空爆はすんでのところで、開始前に頓挫しそうになった。その日の早朝、航空機がすでに離陸する準備ができていたとき、日本軍の爆撃機が漢口付近の上空に現れた。

 「悪寒が私の体を駆け抜けた。爆撃されれば、この飛行場は空中に四散しただろう。飛行機の燃料は満タンで、爆弾はもう搭載されていた…。対空機関砲で駆逐できなければ、すべては水の泡だ」

 空爆を指揮したフョードル・ポルイニンは、回顧録で『戦いの跡』で、こう振り返っている。だが、破局は避けられた。日本軍は突然、隣の都市、長沙の方向に向かった。

 当時としては、この松山飛行場の爆撃は、空前の作戦だった。戦闘機による援護なしで7時間、28機の爆撃機が1千キロメートル飛んだ。しかも、南昌の部隊は、航行を誤り、基地に戻らなければならなかった。

 燃料を節約し飛行範囲を拡大するために、漢口部隊は、高度約5千メートルで飛行した。酸素マスクがなかったので、パイロットは酸欠のせいで、体力の限界にあった。

 「心臓の鼓動が速まり、眩暈がし、眠気に襲われる…。我々の耐久力だけが頼りだった」。こうポルイニンは回想している。

 

青天の霹靂――爆撃

 台湾に達したソビエト機は、台湾島の北を通過してから急旋回し、エンジン音を消すため、グライダーのように滑空しながら、松山飛行場を襲った。

 合計280発の爆弾が飛行場に投下された。40機の日本機が破壊された(分解された状態でコンテナに収納されていたものは含まない)。さらに、複数の格納庫と3年分の航空燃料備蓄が焼失した(ただし、日本海軍の発表では、飛行場は被害を受けず、少数の住民に犠牲が出た)。

 日本軍は、中国本土から離れた飛行場は完全に安全だと確信していた。日本の戦闘機は、1機も離陸して迎撃することができなかった。高射砲の応戦も、時すでに遅し、ソビエト機はすでに中国本土に向かっていた。

 東京は、ポルイニンの空爆に衝撃を受けた。この空爆で、日本列島そのものも危険にさらされていることがはっきりと示された。

 

アメリカの勝利?  

 ソ連のパイロットは、損失を出さずに漢口に戻り、英雄として迎えられた。彼らに敬意を表した晩餐会には、中国国民党の指導者、蒋介石の妻である宋美齢も出席した。

 もちろん、空襲の状況は、中国の指導部はよく承知していた。だが、ソ連のパイロットが中国にいることが特異な状況であるため、一般人の間では、詳細は知られていなかった。

 その結果としてこの戦果は、国際的な(主に米国人の)義勇兵部隊によるものだろう、ということになった。その部隊は、米国人パイロットのヴィンセント・スミスが率いていた。正式名は、中国空軍第14飛行隊で、有名な「フライング・タイガース」の事実上の前身だ。こちらは、1941年4月に米国から中国入りした義勇兵の戦闘機部隊である。

 「漢口のある英字新聞に、当時、奇妙な記事が出た。いわく、外国人パイロット率いる中国航空隊が台湾を襲い、日本の航空隊に深刻な損害を与えたという。その少し後に、米国人パイロットが空爆に参加したと書いてあった」。ポルイニンは振り返る。

 また「The Hong Kong Telegraph」紙は2月25日にこう報じた。「百戦錬磨のつわもの」であるヴィンセント・スミスは、「日本への初めての大胆不敵な攻撃」を率い、中国とロシアのパイロットも参加した、と。

 ソ連側はこの件に関して、完全な沈黙を保った。こういう事の成り行きは、ソ連に有利でさえあった。スミスは、誤報を否定しなかっただけでなく、お祝いを喜んで受け、ジャーナリストのインタビューに応じて、ほとんど国民的英雄のようであった。

 ところが数日後、真実が明らかになる。日本側は、松山飛行場の空爆を行ったのは、ソ連の爆撃機「SB」のみであるとの公式報告を出した。

 ヴィンセント・スミスは、虚言のかどで非難され始めて、面目を失い、辞表を提出して、香港に去った。3月1日、彼の第14飛行隊は、戦果があまり上がらなかったため、解散した。

 ソ連のパイロットは、中国人から「正義の剣」と呼ばれ、1940年にいたるまで中国で戦い続けた。つまり、国民党と毛沢東の共産党との関係が再び悪化するまでだ。

 戦いの全期間を通じて、ソ連は、3665人のパイロットと技術専門家を中国に送り、そのうち211人が亡くなっている。

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