ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)

ボリス・モザエフ少佐の大隊、1965年7月21日

ボリス・モザエフ少佐の大隊、1965年7月21日

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織
 米国がその歴史の中で最も苦い敗北を喫した背景には、ソ連兵らの活動があった。

 米国がインドシナ半島の紛争に介入したことに、ソ連も黙ってはいられなかった。1965年3月に米軍がローリング・サンダー作戦、すなわち北ベトナムへの定期的な爆撃を開始した一ヶ月後には、ベトナム民主共和国政府の要請で、ソ連の地対空ミサイル複合と、そのメンテナンスを行う軍事専門家が北ベトナムに派遣され始めた。

ミサイルの側に立っているベトナム人民軍の兵士

  戦争の全期間を通して、モスクワはハノイに95基の地対空ミサイル複合S-75、500機以上の飛行機、120機以上のヘリコプター、5000門以上の高射砲、2000両以上の戦車を供与した。有効な国際協力を遂行するため、北ベトナムにミサイル兵、パイロット、無線兵、戦車兵、軍医ら1万人以上のソ連の専門家が派遣された。

ソ連の軍用装備品、ハノイ

 とりわけ大きな役割を果たしたのがソ連の地対空ミサイル兵だった。ベトナム人民軍の人員育成だけでなく、戦闘にも直接参加した。米国の空軍と海軍が北ベトナムの防空網を圧迫できず、北ベトナムを崩壊させられないまま4000機以上の飛行機を失ったのは、ソ連兵の大きな功績と言える。 

1965年の春。ベトナムのミサイル訓練施設。「先生と生徒」

 ベトナム人民軍第274地対空ミサイル連隊の誘導将校リム・カザコーフの話:「これはベトナム人の同胞の名誉だが、彼らは貸与された兵器のそばから離れず、その扱いを見事に習得した。実戦における班活動に加え、我々は定期的に模擬兵器を使った訓練を行い、必要なベトナム語単語の一式を身に付けた。初期のミサイル発射の心理的障壁は共に乗り越えた。私が発射ボタンを押し、ベトナム人の誘導将校は発射後にボタンを押した。彼らは時にそのことに気付いていないようだった」。

1970年。エフゲニー・アントノフ大佐(中央)

 1965年9月から1967年10月まで在ベトナム・ソ連軍事専門家団の団長だったグリゴリー・ベーロフの回想:「戦闘活動でベトナム兵を援護している際には、我々は『私のようにしろ』、つまり戦闘車両や兵器を我々が使いこなすように使え、我々のように正確かつ的確に責任を果たせ、我々のように撃て、と言っていたが、人間関係の面ではいろいろと難しかった。ベトナム人は、軍人も民間人も、我々を監視し、腹を探り、どんな目的と意図を持ってやって来たのか理解しようとしていた。ベトナムからフランス人が放逐されて10年余りしか経っていなかったのだから無理もない。我々が骨身を惜しまず彼らに無私の援助を行っており、かつ侵略者に対するベトナム人民の勝利だけを衷心から願っているということを理解して初めて、彼らは我々に深い敬意と、さらには愛を以て接してくれるようになった」。 

1967年4月。ベトナムの発射要員

 ベトナム人民軍第274地対空ミサイル連隊発射大隊の指揮官ゲンナージー・シェロムィトフの回想:「一ヶ月の間は我々自身が操作し、ベトナム兵は隣で我々の行動を観察して実戦でミサイルを発射するノウハウを蓄えていった。それから彼らが操作を行うようになり、我々は彼らの背後に立って活動を監督した。それが三、四ヶ月続いた。ベトナム兵が戦闘経験を積むにつれ、ソ連の軍事専門家は集団で帰国していった。我々は常に車両に乗っていた。ミサイルを発射するごとに陣地を変えていた」。 

1965年、ナムディン省。防空ミサイル連隊

 在ベトナム・ソ連軍事専門家団団長参謀で勤務していたリュボーフィ・ロスリャコワの話:「ある夏の日、今でも思い出すのが恐ろしい爆撃があった。クラスター爆弾の一つが我々の駐在武官機構の職員が住む家の一角に落ちた。家の角は根こそぎえぐられ、深い穴ができ、建物の壁全体が爆弾の子弾で貫かれていた。隣家と向かいの家も被害に遭った。幸い皆仕事に出ており、死者は出なかった。爆撃の後、我々は隣家の一室に入り(この家に我々の医務室があった)、厚さ40センチメートルはあろうかという壁が子弾で蜂の巣になっている光景を目の当たりにした。子弾がベッドや机、床の上に転がっていた」。

 1967年5月から1969年4月までソ連軍事専門家団の参謀長を務めたボリス・ヴォロノフの話:「戦闘活動中、気温は日陰でも40度に達し、湿度もひどく高かった。ミサイル誘導基地の作業室に空調設備はなく、部屋の扇風機は60度の温風を送るだけで、装置も、そこで働く軍人も、冷やされなかった。我々の軍人の制服は、鋼鉄のヘルメットとズボンだった。汗が滝のように流れ、床に落ちた。部屋のオペレーターの肘掛け椅子の下には乾くことのない汗の水溜まりができていた。重い制服で汗疹を患い、戦闘能力を失って病院に搬送される者もいた」。

壊れたB-52の窓

 ベトナムで特別任務を遂行していた軍事科学専門家団の一員アレクサンドル・アノソフの話:「グループは、不発弾や地雷、迎撃した米軍機の残骸を含め、鹵獲した米軍の兵器を選別・調査していた。ベトナム戦争全体を通して4000機以上が撃墜された。今では我が班は時に『戦利品漁り』という不名誉な呼ばれ方をするが、ベトナムではむしろ『野蛮な師団』として知られていた。どこが師団なのか。我々は数人しかいなかった。だが我々には、何かが爆発したり、何かが燃え出したりと、常に何かが起こった。面白いのは、我々が『拠点』としていたのがハノイのソ連大使館内の小部屋で、この『芸当』が皆の面前で行われていたことだった。そのため、我々が汚れて、疲れ果て、無精髭を生やして戦利品とともに戻ってくると、皆不測の事態に備えて我々と距離を取るのだった」。

アメリカ海軍のF-4B ファントムII

 ベトナム人民軍第236(後に第285)地対空ミサイル連隊発射大隊で小隊の副指揮官を務めたニコライ・コレスニクの話:「通訳は皆ベトナム人民軍の将校で、いくつかの問題の解決に際しては、彼らの立場が大きく影響した。したがって、通訳は連隊の中で際立って尊敬を集めた。ソ連の指揮官だけでなくベトナムの指揮官も彼らの考えを尊重していた。彼らは、純粋に技術的な翻訳の難しさに加え、教習過程の多くの組織上の問題を、そして後には師団と連隊の任務との協調および協同動作の問題を、自分たちで解決せねばならなかった」。 

1967年の春。ヴィクトル・ズラヴリョフ大尉、トフェウ中尉(左側から)

 ベトナム人民軍第5地対空ミサイル第1師団第1発射大隊の指揮官ヴャチェスラフ・カナエフの話:「ある夜、師団で警報が鳴り、施設に接近する飛翔体が発見された。ミサイル発射に理想的な条件だった。最適な高度(6キロメートル)で、速度も小さかった。しかし、まさにこのことがアレクサンドル・グラドィシェフ(第1師団の指揮官)を警戒させた。彼は発射指示を出さなかった。数秒後、これが識別信号装置を搭載していない中国製の郵便機であることが判明した。指揮官の直感と経験により、飛行機とその乗員は難を逃れたのだった」。

墜落したB-52「 ストラトフォートレス」を視察している専門家

 ベトナム人民軍第236および第275地対空ミサイル連隊の連隊班班長タウノ・ピャットエフの話:「ベトナム兵は常に我々に地上の敵の攻撃の危険性を警告していた(特に陣地で作業している際は、護衛なしに一人でどこかへ行ってはならない)。12月25日の朝、第67師団の歩哨が20号線沿いの領域の奥地に3つのパラシュート班が投下されたのを確認した。攻撃の危険性が現実のものとなった。攻撃者は明らかにアマチュアではない。では我々ソ連軍事専門家は彼らにどう対抗すべきか。我々は銃器も、いかなる身分証明書も持たずに働いているのだ」。

F-105の爆燃

 地対空ミサイル複合「ヴォルホフ」発射小隊指揮官エドゥアルド・レカノフの話:「1966年6月、我々はハノイ近郊で東南アジア最大の橋を警護していた。隣の大隊ではベトナム兵の班に自分たちの判断で発射を実施するよう任せていた。どちらのミサイルも標的を外した。ファントム戦闘機は攻撃のために転回した。我々の大隊のそばでナパーム弾が破裂し、数滴の燃焼材が私の太腿に当たった。すぐさまドンチ(ベトナム語で「同志」)が駆け寄り、傷の処置をしてくれた。我々の大隊では負傷したのは私だけだったが、迎撃に失敗した班は全滅した。それ以来しばらく、ベトナム兵は自分たちだけで発射を行うことを避けるようになった。『軍事は真剣に学ばなければならない!』とのことだった」。

 資料を提供して頂いたベトナム戦争退役軍人地域間社会組織とその幹部会代表のニコライ・ニコラエヴィチ・コレースニク氏に感謝の意を表したい。

砲兵陣地で発射要員
1966年11月23日、アメリカ空軍のAC-130
爆弾Mk 84の爆発
アメリカ空軍のハンターキラーグループ
1967年12月18日。米国の軍艦とソ連のトロール漁船

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