皇室フーリガン:ロマノフ家の喧嘩と酒乱と狂気

Archive photo, マザレフ撮影/Sputnik, susannp4/Pixabay
 ロマノフ家の中にはかなり気が狂った人々がいた。例えばピョートル大帝は、時に多量の酒を人に飲ませて死なせていた。彼は部下をぬいぐるみのように放り投げることでも知られていた。ロマノフ家のある大公は、野良犬を撃つように上司の将軍を撃った。また別の者は立派な技師を自殺に追い込んだ。

1. ピョートル大帝とその酩酊武勇伝

 飲酒はピョートル大帝の究極の悪癖だった。彼は若い頃モスクワのドイツ人地区に通い、ロシア皇室に仕えていたドイツ人やイギリス人と酒を飲んでは大騒ぎをしていた。同時代人の公クラキンは、飲酒が数日続くことがあり、これが原因で多くの人が死んだ(ピョートルの友人フランツ・レフォルトを含む)と回想している。当時ドイツ人地区の結婚式にツァーリが参加しなかったことはなかったという。

 1690年代、若きピョートルは「全冗談全酩酊狂気公会」を作り、飲み仲間であるロシアの高官や貴族を入会させた。この会の活動はピョートルが死ぬまで続いた。酒宴の間会員は皆卑猥なあだ名で呼ばれ、正教会の聖職者の序列を真似た階級を割り当てられいた。会には福音書の代わりに聖書を象った箱があり、ウォッカの注がれた杯がしまわれていた。

 ピョートルはいくぶんフーリガンだったと言って差し支えないだろう。イギリスを訪問したさい、彼は一パイントのブランデーと一パイントのシェリーを飲んで仕事に臨んだ。

 1698年、ピョートルは公メンシコフが帯刀して舞踏会にやって来たことに気付き、彼を叱責して平手打ちを食らわせた。メンシコフは鼻血を流した。同年、26歳のツァーリはパーティーでフランツ・レフォルトに対して激昂し、彼につかみかかると、「彼を床に叩きつけ、両足で踏みつけた(…)」。ボヤールのゴロヴィンが酢の入ったサラダを食べることを拒んだ(ロシアのボヤールはヨーロッパのサラダを「馬の餌」と見なしていた)際は、ピョートルは大佐に命じてゴロヴィンを逆さに抱えさせ、彼の口にサラダと酢を詰め込んで「鼻血が出るほどのくしゃみ」をさせた。

 ピョートルの「集会」(公式の舞踏会)に遅れた廷臣は、誰であろうと「大鷲の杯」(1.5リットルのウォッカ)を飲まされた。これで複数の死者が出た後は、誰も舞踏会に遅刻しなくなった。ピョートル大帝と酒を酌み交わした多くの人が死んだ。ピョートルの姪アンナ・ヨアノヴナ(1693-1740、後のロシア皇帝アンナ)はクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚した。彼は祝宴のためサンクトペテルブルクにやって来たが、ピョートルの終わりなき酌に付き合い、2ヶ月半後に死亡した。

 ピョートルは晩年も飲み騒いだ。1725年1月、フランスの大使ジャック・ド・カンプレドンは軍事同盟の件でツァーリと交渉する計画だったが、交渉は突然打ち切りとなった。ロシアの外務次官オステルマンがカンプレドンに密かにこう伝えたためだ。「差し迫った問題について今ツァーリと話すことはできない。陛下は来る日も来る日も享楽に耽っており、首都有数の高貴な家々を200人の音楽家と道化師を引き連れて訪ね回っては、ありとあらゆる歌を歌い、家の主人の負担で飲み食いをしている。」

 間もなくカンプレドンはロシアを去り、二度と交渉が再開されることはなかった。ピョートル大帝は同月に世を去った。 

2. 将校を自殺に追い込んだ未来の皇帝

 有名なロシア人革命家で哲学者でもあった公ピョートル・クロポトキンは、1869年に起きた大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(後の皇帝アレクサンドル3世)にまつわる恐ろしい出来事について回想録で綴っている。フィンランド人将校のカルル・グニウスは、銃器工としてロシア軍に勤めていた。彼は、19世紀後半にロシアで最も多く用いられていたライフルの一つ、ベルダン・ライフルを改良したことで知られていた。仕事でアメリカを訪れた後、彼は当時皇帝アレクサンドル2世政権の副将だった大公アレクサンドルと謁見することになった。

 「謁見の間、大公は(…)将校[グニウス]に対し無礼に話し始めた。彼は威厳をもって応じるべきだった。大公は激昂し、将校に向かって容赦なく暴言を浴びせた。(…)将校は直ちに退室し、大公に謝罪を求める手紙を送った。24時間以内に謝罪がなければ、拳銃自殺をすると書き添えていた。(…)アレクサンドルは謝罪せず、将校は宣言通り自害した。私は親友の家で彼を見た。彼は謝罪を待っていた。翌日彼は死んでいた。アレクサンドル2世は息子のふるまいに激怒し、将校の棺の右側について墓場まで同行する[大公にとって大変な恥だった――編集部註]よう命じた。だがこの恐ろしい教訓も、若者からロマノフ家の傲慢さと性急さを拭い去ることはなかった。」

3. 軍の将軍を撃った大公

 皇帝アレクサンドル2世の孫で皇帝ニコライ2世のいとこに当たる大公ボリス・ウラジーミロヴィチ(1877-1943)は、ロマノフ家の男児の慣わしとして軍でキャリアを積むよう育てられた。彼は優れた教育を受けており、大のイギリス好きだったが、彼は紳士ではなかった。若い頃からボリスは有名な飲んだくれかつプレイボーイであり、全く遠慮を知らなかった。ニコライ2世の戴冠式では、彼はルーマニア皇太子妃マリア(彼のいとこで、既婚だった)とじゃれついていた。当時のヨーロッパ上流社会では、彼の求愛によってすでに取り決められていた結婚のいくつかが破談になった。ボリスがあるフランス人女性と婚外子を設けたとき、両親は彼を世界旅行にやった。その道中、彼はマハーラージャたちと虎を狩り、アメリカ人女優の靴でシャンパンを飲んだ。彼の最も有名な不祥事もまた、その放縦ぶりに端を発した。

 1904年から1905年にかけての日露戦争の間、ボリスはアレクセイ・クロパトキン将軍の司令部に勤務していた。遼陽でボリスは看護師にセクハラをしたが、この看護師は公女ガガーリナ(非常に高貴な家系の女性)だった。彼女はボリスの顔面を平手打ちし、クロパトキン将軍に苦情の手紙を書いた。

 将軍はボリス・ウラジーミロヴィチを呼び出し叱責した。憤慨したボリスは、私が大公であることを忘れたか、分をわきまえよ、と食ってかかった。ロシア帝国陸軍大臣クロポトキンは激怒し、「黙れ! 気を付け!」と叫んだが、これに対し大公は銃を抜いてクロパトキンを撃ち、腕を負傷させた。恐怖におののいたクロパトキンはニコライ2世に手紙を書き、どうすべきか助言を請うた。そして受け取った返事は、「法に従って処理せよ」という恐ろしいものだった。法律では、将軍を撃った軍人は、誰であれ処刑されることになっていた。敢えて大公を処刑できる者がいなかったため、彼は医師らの会議で狂人と認定され、サンクトペテルブルクに送り返された(これは彼の希望に適うものだった。彼は軍人として命を危険に晒すことを望んでいなかった)。ともあれ、医師らの診断は正しかったと言えるだろう。

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