ロシア皇室の醜聞:ロマノフ家の4大セックス・スキャンダル

London Films Productionsの「エカテリーナ2世」という、ロシアの皇后の生命に基づいた映画に演じるダグラス・フェアバンクス・ジュニアとダイヤナ・ネーピア。

London Films Productionsの「エカテリーナ2世」という、ロシアの皇后の生命に基づいた映画に演じるダグラス・フェアバンクス・ジュニアとダイヤナ・ネーピア。

Getty Images
 ピョートル大帝の最初の妻への非情な仕打ちから、アメリカ人の愛人の気に入るように家宝のダイヤモンドを失敬した大公にいたるまで、ロマノフ家の歴史は、夫婦関係、情事がらみの醜聞が少なくない。

1. ピョートル大帝(1世):度外れな「愛」

ピョートル大帝(1672~1725)

 ピョートル大帝(16721725)は、最初の妻、エヴドキヤ・ロプヒナを愛していなかった。彼女を選んだのは、ピョートルの母親だった。息子が16歳になり、成人したときのことだ。だから、この結婚は強いられたものだった。

 エヴドキヤは古風な女性で、西洋文化に対するピョートルの情熱に共感しなかった。若いツァーリは間もなく彼女をかえりみなくなったが、1690年に彼女は、不運の人、皇太子アレクセイ・ペトローヴィチを産んだ

 1698年、ピョートルは、エヴドキヤの父が宮廷に陰謀を企てていることを知るや、彼女をスーズダリ(モスクワから東方へ220キロ)の修道院に幽閉した。

エヴドキヤ・ロプヒナ

 しかし、失寵の憂き目にあった皇后は、修道院で「世俗的な」暮らしを続けた。1709年から彼女は、ステパン・グレボフ少佐と不倫の関係に陥ったからだ。グレボフは、スーズダリの部隊に派遣されたのだが、そこで見つけたのは、長きにわたる愛の物語だった。

 彼らの幸福は9年間続いた。だが、1718年にピョートルは、嫌疑をかけられた他の修道女たちから、この情事について知った。グレボフは捕らえられ、拷問された。彼はエヴドキヤとの姦通を自白したが、愛人を守るため、情事をもちかけたのは自分だと言い張った。

 エヴドキヤは、グレボフの処刑の場に立ち会わされた。言い伝えによると、兵士たちは無理やり彼女の目を開かせたので、彼女は恋人の苦悶の痛ましい光景から目を逸らすことができなかった(彼は呪いをかけられたうえ処刑された)。

 悲しむべきことに、エヴドキヤは、ピョートルの残酷さに苦しめられた唯一の女性ではなかった。メアリー・ハミルトン(後に女帝となるエカテリーナの女官だった)も、同じ理由で、つまり他の男と関係をもったかどで処刑されている

2. エカテリーナ2世:火事を起こしてその間に出産

エカテリーナ2世

 エカテリーナ2夫のピョートル3世に性生活があったかどうかはいまだに広く議論されている。はっきりしているのは、エカテリーナがその生涯の間に少なくとも20人の愛人、寵臣をもったことだ。

 「私の妻は妊娠している。どうやってかは神のみぞ知るだ。自分の子かどうか分からないし、自分の子として受け入れるべきかどうかも分からない」。エカテリーナは、彼女が娘アンナを妊娠したときの夫の反応をこう記している。アンナは、実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)とのロマンスで生まれたと考えられている。

グリゴリー・オルロフ(1734 – 1783)

 グリゴリー・オルロフ伯爵は、近衛軍の将校で、エカテリーナの夫ピョートル3世に対するクーデターを助けた人物だが、12年間にわたり彼女の愛人だった。二人の間には息子が生まれ、アレクセイ・ボブリンスキーと名付けられた(アレクセイは軍人〈少将〉、科学者となった)。

 アレクセイがまだお腹の中にいたとき、エカテリーナは夫に妊娠を隠すために四苦八苦したが、いかに出産するかはさらに大きな問題だった。

 しかしエカテリーナの腹心、ワシリー・シュクリンは解決策をひねり出した。彼は、ピョートル3世が火事で燃える家を眺めるのが大好きなことを知っていたので、自分のサンクトペテルブルクの邸宅に火をつけた。皇帝が火事見物のために宮殿からすっ飛んでいった後で、エカテリーナは無事出産した。赤ん坊はシュクリンの世話に委ねられ、後にボブリンスキー伯爵家の祖となる。

3. ニコライ1世:性生活ぬきの結婚

ニコライ1世とアレクサンドラ・フョードロヴナ

 ニコライ大公(アレクサンドル1世の弟)は、17歳のとき、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘シャルロッテと結婚した。彼女は1816年に、ロシア正教会の洗礼を受け、ロシア名アレクサンドラ・フョードロヴナを名乗った。二人は仲睦まじい夫婦で、ヨーロッパの王家で最も美しいカップルの一組とみなされた。

 ニコライの長兄、アレクサンドル1世が死去すると、貴族の将校らによる武装反乱「デカブリストの乱」が起きる。ニコライは、兄コンスタンチンが即位を辞退したので皇帝となり、反乱を鎮圧する。反乱の夜、アレクサンドラは神経を損ない、チック症状が出る。これは彼女の生涯ずっと消えなかった。

 1832年までに、アレクサンドラは7人の子供を産み、健康を損なう。ついに医者が彼女に性生活を禁じるほどの状態になった。

 偶然かどうか――その数年前、ニコライは妻に郊外のすばらしい離宮をプレゼントしていた。アレクサンドラはそこでますます多くの時間を過ごすようになる。一方、皇帝は――サンクトペテルブルクの多くの人々がそれを知っていたのだが――貴族の令嬢、宮廷の女官など数多くの女性との情事を繰り広げた。

 ワルワーラ・ネリドワは、彼の愛人のなかでも筆頭格だったが、同時にアレクサンドラのお気に入りでもあった。1845年、激怒した皇后は、イタリアに旅した際に、ネリドワにお供を命じた。この作戦は図に当たった。情け容赦のないニコライも、あらゆる仕事を放擲し、二人といっしょにナポリに出かけた。

アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后、ニコライ1世の妻、1860年

 言い伝えによると、三人はうまくこの状況を切り抜け、いっしょにサンクトペテルブルクに戻ってきた。ニコライとネリドワのロマンスは、前者が1855に死ぬまで続いた。

 ニコライが死去したとき、アレクサンドラはネリドワのニコライへの愛情を認めて、遺体の傍で一時間を過ごすことを許した。さらにその後、アレクサンドラは、ネリドワが宮廷で有利な地位を占められるように助けた。皇帝の死後、二人の女性が友人になれたのは、同じ男性への愛だった。

4. ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公:あなたに首ったけ

ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公(1850 – 1918)

 彼の父は皇帝アレクサンドル2世の弟で、祖父はニコライ1世である。ニコライ・コンスタンチノヴィチ(以下ニコライと表記)は、すべての大公のなかで最も公明正大な人物とみなされていた。賢明で容姿も優れ、帝国の最大の財産のひとつを相続するはずであった。

 サンクトペテルブルクの舞踏会で彼は、アメリカ人の女優・ダンサーのファニー・リアーと親しくなった。最初は単なる行きずりの情事と思われたが、やがて二人のロマンスは皇室の頭痛の種になった。貴賤結婚は、ニコライの財産を結局失わせ、ロマノフ家の恥となるだろう。

 そこで、軍人であった大公は、中央アジアの遠征に送られた。ところが彼は帰還するやいなや、欧州旅行に出かけた――自分の愛人と連れ立って。そして、彼女のために莫大な金を費やした。

 だが、ついにニコライの手持ちの金は尽きた(皇室の他の人々と同じく、彼も毎年一定の額を支給されていたので、無制限に使うわけにはいかなかった)

 その後、18744月、ニコライの両親の宮殿でダイヤモンドが盗まれるという事件が起きた。この一家が最も崇敬していたイコンの一つの覆いから抜き出されたものであった。このイコンはかつてニコライ1世が三男コンスタンチン(ニコライの父)とその妻を祝福して贈ったもの。

 捜査の結果、驚くべき事実が発覚した。ダイヤは盗まれ、質屋に売られた――ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公その人によって彼はファニーへの贈り物にこの質草で得た金を使うつもりだった。

女優ファニー・リアー

 ニコライがこの犯行に対し反省の念を示さなかったので、両親の命令で、彼は狂気と宣告され、皇室の一員としてのすべての特権を失い、地方へ、最終的には中央アジアへ放逐された。彼は1881年に伯父アレクサンドル2の葬儀に出席することさえ許されなかった。

 ニコライはタシケント(モスクワから3400㎞)で、地元の人々を助けることに専念した。切実に必要だった灌漑施設を発明し、その建設を監督し、地元の劇場を建設し、教育費を援助した。

 彼はようやく革命後、サンクトペテルブルクに短期間戻ったが、すぐにタシケントに帰り、1918年に亡くなった。言うまでもなく、彼は二度と再びファニー・リアには会わなかった。

 

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