ソ連のバイカー:彼らは西側のバイカーとどう違ったか(写真特集)

ソビエトのバイカーというのはかなり短命の現象で、最盛期を迎えたのは連邦終焉の間際、ペレストロイカの頃だった。彼らには独自の特徴があり、バイカーではなく「ロッカー」と呼ばれた。

 1.ソ連でバイクが特に人気を博し始めたのは20世紀半ばだった。当時はソ連経済の特殊性ゆえ車の購入が難しかったのである。だが1970年代までには車も手に入りやすくなり、その結果、成熟した大人は車を選び、若者はバイクを選ぶ、という構図ができた。

モスクワのロッカー。1987年、モスクワ。ヤワの店舗の前で集まっている若者。

 2. 1980年代初めには、バイクに乗った若者の姿が街で目立つようになった。彼らが西側のバイカーについて情報を得始めたのもこの時期だったが、ソ連の場合、バイカーが西側によく見られたような犯罪集団を作ることはあまりなかった。しかしながら、西側同様にソ連のバイカーもいくぶんロックやヘビーメタルを好むことがあり、その場合彼らは「ロッカー」と呼ばれた。

 3.西側のバイカーとは異なり、ソビエトのバイカーは洒落たバイクを持たず、現地で調達できるものに甘んじなければならなかった。彼らはIZHプラネータやミンスク、ヴォスホードなどのバイクに頼った。これらのバイクの値段は450~750ルーブル(750ドル~1250ドル)で、当時の平均月収の数ヶ月分に相当した。

レニングラード、ソビエト連邦。バイカーの集まり。

 4.より権威があったのは、東欧、特にチェコスロバキア製のバイクだった。ヤワやCZ(チェスカー・ズブロヨフカ・ストラコニツェ、ソ連ではチェー・ゼットと呼ばれた)のモデルがそれだ。

チェコのヤワ、広告ポスター。

 5.ソビエトのロッカーは、大抵週末の晩に、どこか街に近い公共公園やそれに類する場所に集まった。マクシム・ゴーリキーに因んで名付けられた公園、ルジニキ・スタジアム、「山」(雀が丘のモスクワ大学近くの展望台)がモスクワで最も人気の集合場所だった。「山」には今でもバイカーが集まる。

バイクに乗っている女性バイカー。

 6.ロッカーは夜間の街でバイクを乗り回すのを好み、警察の厳しい取り締まりの対象となった。ところが、警察のバイクは旧式のものが多く、バイカーに追いつけないこともあった。

 7.ソビエトのバイカーは、交通規則を無視する傾向があった。というわけで、ソ連時代のバイク関連の交通事故の統計は衝撃的なものだ。1980年代、バイクの絡む事故は年間7万件あり、うち1万件が死亡事故だった。

道路を走っているロッカー。

 8.ロッカーはソ連で大変人気のある一般的な現象で、ロッカーをテーマにした映画も登場したほどだ。その一つが、『アヴァリア:警官の娘』だ。主人公アヴァリア(ロシア語で「事故」の意味)はロッカーのギャングに関わっており、騒動に巻き込まれる。

9. 1990年代までに、モスクワのロッカーはいくつかのクラブに分かれた。「ヘル・ドッグズ」、「ナイト・ウルヴズ」、「コサック・ロシア」などのグループが代表的だ。このうち最初に自分たちのことをバイカーと呼び始めたのは「ナイト・ウルヴズ」で、リーダーは「外科医」の異名を持つアレクサンドル・ザルドスタノフだった。グループは健在で、「外科医」はロシア大統領ウラジーミル・プーチンともいくらかコネがあると豪語している。

「外科医」がをリューベリの一人を苛めている。当時はロッカーなどのサブカルチャーに対する抑圧が始まり、リューベリという、スポーツやヘルシーなライフスタイルを宣伝していた若者の流派が発生した。

10.ソ連崩壊に伴い、バイクにまたがるロッカーは過去のものとなった。後継者らは外国製のバイクを手に入れ、外見も西側の元祖バイカーにより近いものになった。

90年代のバイカー。

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