共同住宅の台所
オレグ・イワノフ/TASS共同住宅の廊下
モスクワ博物館1917年のロシア革命後、新しいボリシェヴィキ政権は、「住宅の最適化」に関する命令を出した。これにより、とくにモスクワとサンクトペテルブルクの中心部の大きなアパートは、共同住宅に変えられた。元の所有者には、家族および所持品のために一部屋があてがわれただけで、残りは他の世帯とシェアしなければならなかった。
1つのアパートに詰め込まれた数世帯は、大きな部屋やバスルームを分割するために、無数の仕切り壁を作った。この辺りは、小説家ミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』に活写されている。
新政権は人々に、「ブルジョア的生活スタイル」と戦うよう呼びかけた。これは、共産主義建設のうえであるまじきことだというわけで。
「私たちは、一部屋住まいでとても快適だったのに、学校では、快適さは俗悪な実利主義のようなものと教えられた」。作家リディア・レベディンスカヤさんはこう回想する。「学校から帰宅すると、すぐさま私は周りを見回し、直ちにこの俗物根性と戦わねばならぬと気付いた。家にはまだ大人たちが帰宅していなかったので、はさみを取り出して、窓からチュールカーテンを切り取った。それから私は、壁からすべての絵や肖像画を取り外し、ナイフやフォークを投げつけた。テーブルクロスでこれらぜんぶをくるみ、ゴミ箱に持って行った…。私が絨毯を取り去ろうとしていたとき、父が仕事から帰ってきた…」
1940年代のバスルーム
モスクワ博物館共同住宅の生活すべては、厳しいスケジュールと規則に従って進行した。各世帯、居住者は、毎日約30分しか浴室を使えず、その間に自分自身、子供、そして衣服を洗わなければならなかった。時間がかかりすぎると、隣人が怒ってドアをノックするだろう。衣服を乾かすための特別なスケジュールさえあったので、下着とリネンは、たいていバスルームと台所に吊り下げられていた。
「毎朝浴室とトイレの前には行列ができた。人々はイライラしていた。『あいつはあんなに長く何をやってるんだ?』。老婦人たちは、孫たちの「おまる」を持ちながら辛抱強く待っていた」。アーティストのI・ソヤ・セルコさんは当時を思い出す。
共同住宅には最大15ほどの部屋があり、各部屋に1家族がいた。ところが台所は1つだ!その台所の混乱のほどは、想像するにあまりある!いくつかのストーブとテーブルがあり、隣人のフライパンと食べ物を混ぜ合わせないように気を付けねばならない。子供たちは騒がしく、1つのアパートに9匹も猫がいることだってあった。
「主婦たちは鍋を持ってホールを走っていた。台所の各テーブルの隣では、夕方と翌朝の食べ物が調理されていた。あらゆる叫び、話し声、ストーブの音、鍋からもうもうと立ち上がる湯気、ホールや部屋に浸みわたるありとあらゆる種類の匂いが入り混ざって、何とも言えない喧騒をつくり出していた」。ソーヤ・セルコさんは回想する。
1970年代になるとようやく、人々が自分のアパートを持つようになり、共同住宅を去り始めたが、この頃人気の、こんな冗談があった。当時の主婦のアーキタイプ「マリア・イワーノヴナ」は、まだみんなが寝ている早朝にキッチンに入り、隣の鍋に下剤を入れる…。一週間たってようやく彼女は、今は自分のアパートに住んでいることを思い出した…。
新しいアパート、いわゆる「フルシチョフカ」は、滑稽なほど狭いものが多く、キッチンは通常5平方メートルしかなかったが、人々はついに彼ら自身の場所を持てたので幸せだった。新しいキッチンには同じ家具と家電が装備されていたが、ソ連の人々は食料や穀物を何十ものブリキ缶に入れて保存した。もし何か家の中にうまく納まらないものがあれば、いつでもバルコニーに保管できた。
「私は台所でPhDの論文を書いていた。お客は歓迎で、早朝に冗談を飛ばしながら、おしゃべりしたものだ」。モスクワっ子のヴャチェスラフ・ジンチェンコさんは振り返る。「誰もが大好きな祭日は新年だった。みかん、オリヴィエ・サラダ、「ホロデーツ」(肉の煮凝り)などが並んだ。ホロデーツは、冷蔵庫のかわりにバルコニーに置いてあった。お客が大勢だったので、大きなエナメル塗りの盆の上でオリヴィエ・サラダを混ぜ合わせなければならなかった。そしてもちろん、大晦日は映画『運命の皮肉、あるいはいい湯を』を見ずにはおさまりがつかなかった」
1980年代の居間
モスクワ博物館1960年代から1970年代にかけて、人々は共同住宅を去り、モスクワ都心から遠い郊外に移り始めた。国が新築の建物のアパート(フルシチョフカ)を供給したからだ。しかし一部の地区は、都心から離れているだけでなく、公共交通機関からも遠かった。
モスクワっ子のタチアナ・サタロスチナさんはこんな出来事を覚えている。
「1977年に、私たちはビリュロフスカヤ通りの端(モスクワ南部にあり、環状線に近い)に、3つの寝室がある新築アパートを与えられた。そこに着いたとき、私たちは驚いた。たいへん静かで、私たちの足音がアパート中に響きわたるほどだった。アパートの後ろには大きな空き地があり、遠くには森林が見えた…。すべて結構だったが、最寄りのバス停までは徒歩15分、最寄りの地下鉄駅まではバスで25~30 分…。私の最初の出勤は悲惨だった。1時間ほど遅刻し、おまけに新しい黒いブーツのかかとを壊してしまった。それを買うためめにGUM百貨店で4時間もかかったというのに。とどめは、コートに残っているボタンをすべて失くしてしまったことだ」
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