ウラジーミル・レーニンが使っていた卓上カレンダー
プリホディコ/Sputnikお察しの通り、これはロシアが、旧来の暦、ユリウス暦をグレゴリオ暦に切り替えたことと関係していた。それが起きたのは、1917年の10月社会主義革命から3ヶ月後。新政府の政令により、1918年1月31日の次の日は、2月14日となり、その間のほぼ2週間が、ロシアの歴史から永遠に消え去った。
ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンは、同年1月下旬に、「西欧の暦の導入に関する」法令に署名した。このような措置の理由として法令には、「ロシアに、ほぼすべての文明国におけると同様の暦法を確立する」必要性がうたわれていた。
ピョートル大帝の治世の18世紀初頭から、ロシアではもっぱらユリウス暦が用いられてきた。これは、ユリウス・カエサルが共和制ローマで実施し、欧州に伝わっていたものである。
しかしユリウス暦は、より近代的なグレゴリオ暦に比べると正確ではなかった。後者は、16世紀後半から行われるようになり、19世紀には欧州諸国で使用されていたが、1900年の間に、ユリウス暦はグレゴリオ暦より13日遅れていた。
ボリシェヴィキ政権としては、「ほぼすべての文明国」のカレンダーに移行する方法が二つあった。一つは、実際に採用された上の方法と、もう一つは、毎年1日ずつカットしていくやり方だ。
しかし後者だと、ノロノロと13年もかかることになる。これは確かにボリシェヴィキ政権のやり方ではなかった。かくして、たった一晩で断行された次第。
ロシア国立政治史古文書館のアンドレイ・ソローキン館長によると、ボリシェヴィキ政権の指導者たちは、暦を変更するにあたって「明確かつ実際的な目的」を持っていた。
「レーニンはロシア革命を、世界革命のプロローグと認識していた。そして、全地球のプロレタリアの心臓は、同一のクロノメーターにしたがって一斉に鼓動すべきであった。だからこの法令が、最初に採択された文書の1つであったことは驚くにあたらない」。ソローキン館長はこう主張する(ロシア語)。
ソローキン館長はまたこう付け加えた。この決定は、ボリシェヴィキのアプローチ全般に合致する。そのアプローチは、それ以前の時代との断絶をもくろみ、「旧来の国家体制、古い伝統文化、古い習慣、形式的、一般的な法規範の破壊」を目指すと。
しかし、このカレンダー改革が実行されたのは、ボリシェヴィキの思想傾向のせいだけではなかった。グレゴリオ暦に切り替える提案は、早くも1830年にロシアに現れている。このとき、ロシア科学アカデミーは、新しい暦の導入を提案したのだが、教育大臣カルル・リーヴェンがこれに反対した。
すなわち、教育大臣は、「時機を得ず、不適切な提案で、望ましからぬ騒動や要らざる誘惑をもたらし得る」と結論した。皇帝ニコライ1世も、臣下に同意した。
次の試みは、19世紀末に起きた。この問題を審議する特別委員会が、ロシア天文学会に設置されたのだが、その結論部分を見ると、なぜグレゴリオ暦導入がロシアで強硬な反対にあったのかが分かる。
委員会はこう述べている。「正教の諸国家、および東西の正教徒すべては、カトリックがグレゴリオ暦をロシアに導入しようとする試みを拒絶した」。 言い換えれば、この暦は、正教会に対するカトリックのある種の妨害工作として認識されていたということだ。だから、この問題では正教会の立場が鍵であった。
そこで委員会は、「革新的な」アイデアを考えつき、西欧の暦を移入することなく、暦をより正確なものに改善するよう提案した。
さらに1905年には、別の委員会が、グレゴリオ暦への移行は「望ましい」として、妥協案を提示した。つまり、グレゴリオ暦を一般市民の生活のなかで使い、宗教的な暦としてユリウス暦を残すというもの。
これが、10年余りで、ロシア革命後に起きたことになる。ロシア正教会とボリシェヴィキ政権との関係は緊張したもので、前者は西欧の影響にも、国内のニヒリストのそれにも屈しようとはしなかった。政権は一連の弾圧を行ったが(ロシア語)、無駄に終わった。
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