3D博物館がレニングラード包囲戦を再現:突破口を開いた戦いをパノラマで

ミハイル・メツェル/TASS
 独ソ戦下の、900日におよんだレニングラード包囲。1943年1月のソ連軍による「イスクラ(火花)作戦」の結果、ついに同市への陸上ルートが、包囲開始以来1年半ぶりに確保された。その75周年を記念して、サンクトペテルブルク近郊に、新しい3Dパノラマ博物館「突破」が1月27日にオープン。

 レニングラード封鎖は約900日間続き、ソ連で失われた人命は150万にのぼった。包囲網完成直後の 1941年秋から、ソ連軍は、同市に対するドイツ軍の包囲網を突破しようと再三試み、ついに1943年1月に、陸上ルートを確保し、部分的な突破に成功する。3次元パノラマ博物館「突破」は、このできごとを生々しく再現するだけでなく、訪問者はまさに攻撃中のソ連軍部隊の真っただ中にいることになる。

 

実際に参加した兵士をモデルに

 この3Dパノラマは600平方メートルもあり、世界最大規模のものの一つ。2両のソ連軍戦車の一部、多数の自動式ライフル、手榴弾、砲弾などが配置されている。さらに、ドイツ軍の飛行機の小型の模型が訪問者の頭上を飛んでいる。

 兵士の姿もあるが、これは、通常のマネキンではない。18人の真にリアルな赤軍兵士がそこにいる。彼らは、イスクラ作戦に参加し、この日この場所でドイツ軍の陣地を攻撃していた人たちだ。その18人のうち、12人が本人の姿を再現したものである。彼らのうちの何人かの遺骨は、戦闘後数十年も経ってから、遺骨収集のボランティアにより発見されている…。

 「彼らが勲章を授与された、その推薦の文書を読むと、ある種の違和感におそわれる。彼らは、弱冠19〜20歳の若者だったのに、危険と死に向かって突き進んだ。彼らのヒロイズムは筆舌に尽くせない!」。ドミトリー・ポシュタレンコさんは、テレビのインタビューでこう語った。彼は、パノラマの作者であり、第二次世界大戦中に死亡したソ連兵士の遺骨収集を行っているボランティアの一人だ。


「いたるところに埋葬されぬ死体があった」

 博物館で再現されたのは、イスクラ作戦の二日目の攻撃である。これは、1943年1月13日、ネフスキー・ピャタチョークで行われている。ネフスキー・ピャタチョーク(ピャタチョークは5コペイカ貨幣を意味する)は、小さな橋頭堡だった。

 この橋頭保は、ドイツ軍が支配しているネヴァ川左岸で、ソ連軍により奪回された区域である。それは、1941年9月のことで、ドイツ軍の凄まじい猛攻撃にもかかわらず、封鎖が突破されるまでのほぼ全期間にわたり、ソ連軍が押さえ続けた。

 それがソ連軍にとって戦略的に極めて重要だったのは、ネフスキー・ピャタチョークがネヴァ左岸の唯一の拠点であったからだ。本土のソ連軍との接続のために、ここで攻撃を開始できる可能性があった。

 そのことはドイツ軍にとっても明白だったので、この小さな橋頭堡は激戦の場となった。それはごく小さな区域で(長さは1〜4キロメートルで、幅は300〜800メートル)、ドイツ軍にほとんど絶え間なく砲撃された。だから、負傷した兵士を川向こうに避難させ、必要な武器や備品を持ち込むことは困難だった。ソ連軍の諸連隊は、ここで戦闘前の人員の95%を失ったという…。

 ここでは死者を埋葬することも難しかった。「我々の中隊がここにやって来たとき、すべての塹壕が死人だらけだった。死体は、ネフスキー・ピャタチョークのいたるところに横たわっていた。私と中隊の仲間が駐屯していた退避壕には、まるで屋根のように、いくつかの凍死した死体が垂れ下がっていた…。ここのすべての場所が、兵士と将校の墓場だった。ここに長くいられた者は少ない。1日、2日、せいぜい1週間で必ず負傷したり、死んだりしたから。すると、新しい人員が補充される」

 かつてここで兵士として戦ったユーリー・ポレシュさんは、ネフスキー・ピャタチョークでの戦いをこう振り返っている(回想はロシア語)。

 

プーチン大統領の父もここで戦った

 ネフスキー・ピャタチョークでの戦いに参加した兵士の一人に、プーチン大統領の父親がいた。3次元パノラマを制作するというのは、実は大統領の提案だった。数年前に、ネフスキー・ピャタチョークでの戦いに関する、一時的なインスタレーションが作られたことがあったが、その際に大統領は、常設の3Dパノラマを提案したのである。

 大統領の父は、レニングラード包囲戦で戦い、ネフスキー・ピャタチョークで負傷した。大統領は、父の戦争体験を2015年の記事で語っているthe article in 2015。
 プーチン大統領の父は、幸運にもその橋頭堡から生還できたが、多数の兵士がそこで斃れた。ネフスキー・ピャタチョークでの死傷者の数は、様々な推定があり、数に幅があるが、5万〜20万。24万という推算もある。

 

7キロメートル前進するのに1年半

 こうした状況にありながら、橋頭保のソ連軍部隊は、ドイツ軍に頑強に抵抗しただけでなく、わずか7キロ離れた主要部隊と接続するために、繰り返し攻撃し、また、レニングラード方面の部隊との合流も試みた。1942年4月、ドイツ軍は、橋頭保の区域を占領したが、その年の9月には、ソ連軍が奪回に成功した。

 ユーリー・ポレシュさんによれば、こういう状況のなかで、ネフスキー・ピャタチョークは、レニングラードの包囲を破り、何万もの市民を餓死から救う唯一の希望だった。このため、ネフスキー・ピャタチョークが多数のドイツ軍を引き付けることになり、それが助けとなって、1943年1月に封鎖が突破された。というのは、ドイツ軍は、この橋頭保を、ソ連軍が攻撃を開始する最も可能性の高い地点と考えていたのに、ソ連軍の攻撃は、ネフスキー・ピャタチョークより北で行われたからだ。その意外さが、攻撃をさらに助けることになった。

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