「勝利の日」、P.クリヴォノーソフ画(1913年〜1967年)
バラバノフ/RIA Novosti戦争の回数:16世紀半ばから19世紀初めまでに10回
ロシアとスウェーデンの対立の歴史は、すでに12世紀に始まっている。ノヴゴロド共和国とスウェーデンは、バルト海東岸をめぐって争っていた。1323年に、オレホフの和約が結ばれ、これによりカレリアはノヴゴロド共和国の、フィンランドはスウェーデンの影響下に入ることに決まった。
だがこれは、数世紀にわたる対立の始まりにすぎなかった。1377年にスウェーデンは、ノヴゴロドに従属していたカレリア西部(エステルボッテン)を占有。1478年にノヴゴロドがロシアに組み込まれると、バルト海東岸をめぐるスウェーデンとの戦いは、新たな段階に入った。
「ポルタヴァの戦い」、1726年
Denis Martens the Younger/Wikipedia.org1495年にイワン3世は、やはりカレリア西部をめぐり、スウェーデンとの戦いに突入。一進一退の戦いの末、ついに1497年3月に、向こう6年間にわたる休戦条約(第一次ノヴゴロド休戦条約)が結ばれた。これは1323年時点の国境を確認するとともに、スウェーデン・ロシア間の自由貿易の原則をうたっていた。1510年3月に、この休戦協定は、さらに60年間延長された。
スウェーデンと事を構える傾向はその後のツァーリたち――イワン4世、フョードル1世、アレクセイ・ミハイロヴィチ――も引き継いだ。
スウェーデンの勢力バランスに根本的な変化をもたらしたのは、ピョートル1世だ。ロシアが大北方戦争(1700~1721年)で勝利すると、スウェーデンはかつての威力を失った。同国はロシアに割譲した領土だけでなく、バルト海南岸の土地も多く失った。スウェーデンに残ったのはヴィスマールとポメラニアの小部分だけだった。また、北方戦争での敗北の結果、同国ではいわゆる「自由の時代」が始まり、王権が弱まって国会の意義が高まった。
その後もスウェーデンは、失地回復を目指し、再三、ロシア帝国と争う(1741~1743年、1788~1790年、1808~1809年のロシア・スウェーデン戦争)。だが、1809年に結ばれたフレデリクスハムンの和約の結果、スウェーデンはロシアに、オーランド諸島、フィンランド、トルネ川までのラップランド、ムオニオを割譲。こうしてスウェーデンは、自国の三分の一以上の領土を失うことになり、大国の地位も喪失した。
戦争の回数:241年間に12回。
平均して19年ごとに露土戦争が発生 16世紀末から20世紀初頭まで、オスマン帝国とロシア帝国の間には血なまぐさい戦争が絶えず起きた。争いの種は、黒海北岸と北カフカスをめぐる角逐であり、後には、南カフカス、黒海と両海峡(ダーダネルスとボスポラス)の航行権、オスマン帝国領内のキリスト教徒の権利も、これに加わった。
シプカ峠の防衛、ブルガリア独立戦争
Wikipedia.org第一次世界大戦の結果、オスマン帝国は三国協商側に分割され、消滅した。ロシア帝国はまた、とくにエカテリーナ2世の時代から、コンスタンティノープルの領有も目論んできたが、運命の皮肉により、トルコ共和国建設にあたって、ソ連は新国家建設に直接関わることとなった。こうして長年の敵意は、トルコ大統領、ケマル・アタテュルクへの経済的、軍事的支援にところを変えた。
戦争の回数:1018 年から1939年まで10回
ロシアとポーランドの関係は常に緊張したものだった。まず第一にそれは、何世紀にもわたり両国が境を接していたためで、絶えず領土問題が生じた。また、あらゆる大規模な欧州での紛争、戦争の結果、ロシアはいつもポーランドとの国境線の見直しを迫られた。
ポーランド兵はモスクワのクレムリンを退却している。1612年
Wikipedia.org両国の最も深刻な争いは、17世紀初めから18世紀末まで。すなわちロシアの「大動乱」に際してポーランド・リトアニア共和国が干渉した時期から、18世紀末までに両国間で4回の戦争が起き、ついに第二回ポーランド分割にいたる時期までだ。
1815年、ポーランドはロシア帝国の一部となったが、それでもポーランド人とロシア人の争いは止みはしなかった。19世紀の二度にわたるポーランド蜂起(1830年と1863年)で、ロシアは対策を迫られる。その結果、1832年には、ポーランド国会が廃止され、同国の軍隊も解散させられた。1864年には、ポーランド語の使用と男子住民の移動が制限。それとともに、ポーランドでは反ロシア感情が強まっていった。
1917年のロシア革命後、ポーランドは宿願の独立を達成し、ポーランド・ソビエト戦争(1919~1921年)の時期にも、独立を守ることができた。しかし、それから20年も経たない1939年に、ソ連赤軍の“解放”により、1920年代にポーランドが獲得した成果はすべて反古にされた。
ロシアとの長い紛争、戦争の歴史を有する国としては、ほかにドイツを挙げることができる。両国間には、3つの大きな戦争が起き、うち2つは世界大戦だった。
ロシア帝国は、フランスとも4度戦っている(1798~1800年のフランス革命戦争、1805~1807年に戦われた一連のナポレオン戦争〈アウステルリッツ、アイラウ、フリートラントの戦いなど〉、 1812年の祖国戦争〈ナポレオンのロシア遠征〉とそれに続く「諸国民の戦い」、そしてクリミア戦争)。
ボロジノの戦い
Wikipedia.orgまた日本とも、日露戦争、シベリア出兵、日ソ国境戦争、第二次世界大戦と、4度戦い、中国とも3度の軍事紛争を経験している。
全体として、ロシアの歴史は、絶えざる戦争の歴史でもあった。ロシアの哲学者イワン・イリインはこう書いている。「歴史家セルゲイ・ソロヴィヨフが数え上げたところによると、1240年~1462年(222年間)に200回の戦争および他国への侵攻が起きている。14世紀から20世紀にかけての525年間では、うち329年間が戦争だったとスホチンは数えている。つまりロシアは、その歴史の三分の二は戦っていたことになる」
似たような考えを、アレクセイ・クロパトキン(日露戦争時のロシア満州軍総司令官)も示している。1900年にニコライ2世に奉呈したメモランダムに、彼はこう書いた。 「過去200年間のうち128年間、ロシアは戦争状態にあり、平和だったのは72年間のみ。その128年のうち、5年は防衛戦争、123年は征服、侵略のための戦争だった…」
*「ルースカヤ・セミョールカ(ロシアの7)」誌の記事を抄訳
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